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主君と反りが合わず、家中から去った3人の武将とは?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
伝 後藤又兵衛 甲冑(松江城 島根県松江市)。(写真:イメージマート)

 せっかく就職しても会社や上司と合わず、転職する人もいるだろう。戦国時代の武将も同じことで、主君と反りが合わず家中を出奔し、他家に仕える武将がいた。そのうち3人の武将を紹介することにしよう。

◎後藤又兵衛(1560~1615)

 後藤又兵衛は播磨の出身で、黒田官兵衛に仕えていた。又兵衛は九州征伐に出陣し、大いに軍功を挙げた。その後も官兵衛や子の長政に従って各地に出陣し、関ヶ原合戦後は大隈城(益富城)の城主となり、1万6千石の知行を与えられた(石高は諸説あり)。

 慶長11年(1606)、又兵衛は他家の者と頻繁に書状を交わしたことを長政に咎められ、黒田家を辞した。その後、又兵衛は仕官活動を行ったが、長政により妨害された(奉公構)。大坂の陣が勃発すると、又兵衛は豊臣家の誘いもあり、身を投じたのである。

◎塙直之(1567~1615)

 塙直之は尾張の出身で、その前半生は不明である。北条綱成、坂井政尚らに仕えたというが、詳しいことはわかってない。天正18年(1590)以降、直之は加藤嘉明に仕え、文禄の役で大いに軍功を挙げると、鉄砲大将として1千石を与えられたという。

 関ヶ原合戦の際、直之は軍令違反を犯し、嘉明と口論となり、加藤家を去ることになった。その後、直之は小早川秀秋、松平忠吉、福島正則に仕えたがうまくいかず、ついに出家した。大坂の陣が勃発すると、直之は還俗し、豊臣家に迎えられたのである。

◎御宿政友(1567~1615)

 御宿政友は甲斐の出身で、父は武田信玄の侍医だった。政友は武田信玄・勝頼父子、北条氏政・氏直父子、徳川家康と主君を次々と変え、結城秀康に1万石で仕えたというが、石高は誤りとされており、実際は5百~8百石程度だったという。

 秀康の没後、政友は松平忠直に仕えたが、反りが合わず松平家を辞した。以降、政友は牢人生活を送り、大坂の陣とともに豊臣家の陣営に身を投じた。家康は豊臣家の武将の中で、武将らしいのは後藤又兵衛と政友だけだと述べたエピソードがある。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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