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スズキ「カリスマ」退任 トヨタ出身者が経営企画室長に

井上久男経済ジャーナリスト
決算を発表する鈴木修会長(中央)と鈴木俊宏社長(左) 19年5月10日に筆者撮影

 スズキの経営トップとして40年以上同社をけん引してきた鈴木修会長兼取締役会議長(91)が今年6月の株主総会後に取締役を退任し、相談役に就く。取締役会議長は長男で現社長の鈴木俊宏氏に引き継ぎ、経営のバトンを完全に渡す。同時にトヨタ出身の石井直己氏が専務・社長補佐兼経営企画室長に就任。スズキがトヨタから経営トップに近い役員を受け入れるのは初めてだ。今後両社の関係がさらに深まる可能性がある。

修会長がトヨタに「経営人材」を要請

 石井氏はトヨタのインドにおける製造・販売の子会社「トヨタ・キルロスカ・モーター」の社長を2016年まで務めてトヨタ本社に戻り、コーポレート戦略部長、コネクティッド推進室主査などを歴任した。18年6月に日野自動車に出向。20年10月に日野からスズキに移り、常務・社長補佐に就いていた。

 この人事をめぐっては、修氏がトヨタ側に自分の引退後に俊宏氏をサポートできる人材を送ってほしいと依頼したとされ、日野に出向中とはいえトヨタにまだ籍のある石井氏に白羽の矢が立った。石井氏はトヨタ・キルロスカの社長時代、新興国市場向けの「エティオス」をインドに投入、「打倒スズキ」戦略を進めていた。19年にトヨタとスズキの資本提携が成立後、トヨタはインドにおける「打倒スズキ」戦略をやめたが、かつての「宿敵」を社長補佐兼経営企画室長として迎え入れる修氏の度量の大きさを物語る一方で、後継の俊宏氏を支えられる人材が内部にいないスズキの「人材難」も感じさせる。

トヨタとの資本関係が強まる可能性

 石井氏の社長補佐兼経営企画室長就任により、これまで経営トップを支えてきた経産省出身の原山保人副会長兼会長補佐は相談役に退き、同じく経産省出身の長尾正彦常務・経営企画室長は専務に昇格して東京駐在渉外担当に転じる。こうした役員人事により、俊宏氏の傍に仕えてサポートする役員は石井氏一人に絞られる。

 今後、石井氏が役員として成果を上げれば、トヨタとスズキの信頼関係はさらに強まり、トヨタの現在の出資比率5%は次のステップで20%近くに、さらには33・3%を超えて実質的な支配権を持つ可能性がある。

 スズキの強みは圧倒的なシェアを持つインドと、軽自動車にある。コロナ禍の影響で2021年3月期決算の通期での業績見通しは売上高が14%減の3兆円、営業利益が25・6%減の1600億円となり、減収減益だが、売上高営業利益率は5・3%をキープしている。コロナ禍が落ち着けば売上高も利益も徐々に回復していくだろう。

スズキ単独での生き残りの難しさ

 むしろスズキの課題は将来戦略にある。トップ人事と同時に発表された中期経営計画(21年4月~26年3月)では、カーボンニュートラルへの取り組みを強化し、25年から電動化技術を製品に全面展開、30年から電動化製品の量的拡大を図っていく計画だ。しかし、計画の内容については具体性が乏しかった。

 米アップルの自動車への参入計画や、電気自動車(EV)の米テスラの台頭などから、さらに自動車産業は変化していくことが予想される。つながるクルマ、自動運転、EV、シェアリングといった「CASE」領域での競争は一層激化し、年間に1500億円程度の研究開発費しかなく、ソフトウエアの開発分野に強くないスズキ単独ではすべてに対応することは無理だ。

 加えて、遅れている軽自動車のEVシフトなど電動化をこれから強化しなければならない。スズキが持つ資金力や技術力から見てもトヨタとの協業の強化なしで生き残っていくことは難しい状況にある。

 1978年に社長に就任した修氏は、格上の巨大企業と対等に渡り合いながら、経営の独自性を貫き、生き馬の目を抜く自動車業界で生き延びてきた。たとえば、資本提携していた米GMとの縁が切れると、独フォルクスワーゲン(VW)と組んだ。しかし、VWがスズキを支配しようとすると関係を断ち、支援をトヨタ自動車に求めた結果、19年にはトヨタから5%の資本を受け入れて関係を強化した。

トヨタはスズキを「2度救済」した歴史

 こうしたしたたかさから修氏は「狸親父」と言われることもあった。それに比べて俊宏氏は修氏ほどの「芸域」には至っていない。そのため、競争が厳しい業界を生き抜くためにトヨタから俊宏氏を支える「経営人材」を受け入れて関係を強化した、というわけだ。

 歴史的に見てもトヨタとスズキの関係は深い。スズキは初代社長の鈴木道雄氏が1909(明治42)年、現在の浜松市内に鈴木式織機製作所を設立したことが事業の原点にある。トヨタグループの始祖、豊田佐吉氏も浜松市に隣接する湖西市出身で自動織機の事業で財を成し、それが自動車進出の原動力となった。創業家が同郷で、織機から自動車産業に繋がる点も共通する。

 スズキでは1950年に資金繰りに窮して大規模な労働争議が発生した際に豊田自動織機に融資を依頼したことがある。1975年にはスズキの2サイクルエンジンが排ガス規制をクリアできず、当時、専務だった修氏が、トヨタ社長の豊田英二氏に頭を下げ、競合相手であるトヨタグループのダイハツ工業からエンジン供給を受けた。

「カリスマ」の誤算

 その後はトヨタとスズキが表立って手を携えることはなく、むしろ子会社のダイハツとスズキは軽のシェア争奪戦で火花を散らした。そうした中でも修氏は、トヨタの豊田章男社長の父で名誉会長を務める章一郎氏(96)のことを兄のように慕っており、元気な頃は年に何回か食事を共にすることもあったという。

 また、修氏には後継者問題で誤算が生じていた。俊宏氏が社長をできるようになるまで後を託す考えだった経産省出身で娘婿の小野浩孝専務が07年に52歳の若さで逝去したのだ。以来、「精神的に若いという、うぬぼれがあって生涯現役」と修氏はメディアに語り、ずっと経営トップに君臨する覚悟を示していた。

15年末に肺炎 衰える体力

 しかし、潮目が変わったのが15年頃からだ。スズキの社外取締役が「取締役会が老化している」と指摘したことなどから修氏を除く高齢の役員を一部入れ替え、15年6月には俊宏氏を社長に昇格させた。さらに同年8月にスズキはVWとの資本提携解消を発表、次の提携先探しに動き、トヨタが有力候補に浮上した。

 同年12月末から16年1月5日頃まで、修氏が風邪をこじらせ肺炎になって入院し、体力の衰えも目立つようになった。決算発表の場など記者会見では相変わらずの「修節」を見せてくれたが、喋るスピードが遅くなったと多くの関係者が感じていた。19年の資本提携は将来戦略への不安からスズキからトヨタに提携の打診があったとされる。

 そして、今回、トヨタから社長を支える経営人材を受け入れたことで関係はさらに深まることだろう。

経済ジャーナリスト

1964年生まれ。88年九州大卒。朝日新聞社の名古屋、東京、大阪の経済部で主に自動車と電機を担当。2004年朝日新聞社を退社。05年大阪市立大学修士課程(ベンチャー論)修了。主な著書は『トヨタ・ショック』(講談社、共編著)、『メイドインジャパン驕りの代償』(NHK出版)、『会社に頼らないで一生働き続ける技術』(プレジデント社)、『自動車会社が消える日』(文春新書)『日産vs.ゴーン 支配と暗闘の20年』(同)。最新刊に経済安全保障について世界の具体的事例や内閣国家安全保障局経済班を新設した日本政府の対応などを示した『中国の「見えない侵略」!サイバースパイが日本を破壊する』(ビジネス社)

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