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石川真奈美が語る〈マタイ受難曲2021〉【〈マタイ受難曲2021〉証言集#05

富澤えいち音楽ライター/ジャズ評論家
〈マタイ受難曲2021〉カーテンコール(撮影/写真提供:永島麻実)

 2021年2月、画期的な“音楽作品”が上演されました。その名は〈マタイ受難曲2021〉。バロック音楽を代表する作曲家ヨハン・セバスチャン・バッハによる〈マタイ受難曲〉を、21世紀の世相を反映したオリジナル台本と現代的な楽器&歌い手の編成に仕立て直し、バッハ・オリジナルのドイツ語による世界観から浮かび上がる独特な世界を現代にトランスレートさせた異色の作品となりました。このエポックを記録すべく、出演者14名とスタッフ&関係者6名に取材をしてまとめたものを、1人ずつお送りしていきます。概要については、「shezoo版〈マタイ受難曲2021〉証言集のトリセツ」を参照ください。

♪ 石川真奈美の下ごしらえ

 中学高校で音楽部に所属。声楽を学びながら文化祭に備えるというのが、石川真奈美の“歌い手”としてのスタートだった。

 文化祭ではオペラやミュージカルを上演するという本格的な部活。中学一年で小道具を担当。その後は合唱担当やちょい役、そしていよいよ中学三年にして“主人公のライバル役”に抜擢。高校一年では「メリー・ポピンズ」の主役、そして高校二年になると部長で演出──という青春時代を過ごしていた。

 そのころに熱を上げていたのがマンハッタン・トランスファー。自分がやっている合唱とは違うスタイルの音楽表現が「どうやらジャズというものらしい」と気づいて、気になったまま短大を卒業する。就職したのはいいけれど、仕事が嫌になって、将来を考え直す機会に直面。

 そこで「やっぱり音楽がやりたい」と思い直して選んだのが、音楽学校メーザー・ハウスへの入学という道だった。「ジャズはかっこいいし、稼げそうだから」という“不純な動機”ではあったが……。

 ところが、実際にその世界へ飛び込んでみると、それほど甘くはないことを思い知らされる。板橋文夫に師事したピアノは2年で挫折するも、後藤芳子の門を叩いた歌の修業は続けることができた。

 転機となったのは、混声ジャズヴォーカルグループ“Breeze”で新人賞を受賞したこと。後藤芳子から「独り立ちはまだ早いから、コーラスでもやりなさい」と言われて結成したというグループだったけれど、中学高校時代に鍛えた合唱の基礎が役に立ち、見事に花開くことになった、というわけだ。

♬ 身近だったけど興味はわかなかったバッハという存在

 4歳からピアノを習っていたんですが、その先生がとてもバッハ好きだったので、ピアノではバッハをよく弾いていたというか、ほぼ毎日弾くものでしたね。ピアノから離れることになった高校1年ぐらいまでは、当然のように私と一緒にバッハがいた、という感じだったんです。ただ、歌曲についてはまったく知りませんでした。

 そのほかにも、ミッション系の学校だったので、礼拝でバッハを耳にすることもあったし、教会でオルガンを弾いていたりもしたので、好き嫌いとは別に“身近な存在”ではあったと思います。まぁ、おもしろいと感じるには至りませんでしたけど。

 〈マタイ受難曲〉については、存在は知っていて、コラールは教会で歌われる賛美歌になっていたりしたので、そういう意味ではなじみがありましたけど、全曲を通して聴いたことは、今回のオファーがあるまで1回もありませんでした。

♬ “バッハを歌う”という謎の問いかけに……

 shezooさんとの出逢いはちょっと定かではないんですけれど……。Trinite(トリニテ)を観たのが最初でしたね。小森慶子さん(クラリネット)とだいぶ前に共演したことがあって、Facebookで久しぶりにつながることができたタイミングで、小森さんの演奏を聴きに行こうと思ったんです。そのときにshezooさんの音楽を初めて聴かせていただいて、ビックリしたんですよ。曲も演奏もすばらしくて、ホント、衝撃的でした。

 それで、この方とはぜひご一緒したいと思ったんですね。私が持っていないものを持っている、って。その世界に入っていきたいとすごく思ってしまった。そのあと、どういう経緯で共演したのかはよく覚えていないんですけれど、shezooさんから誘っていただいてライヴの日取りが決まったんです。そう、shezooさんが作っている音楽にどうアプローチしたらいいのかわからなかったから、私からはお誘いできなかったんですよ。

 その初回は、in F(東京・大泉学園)でのデュオだったんです。武満徹さんの曲やオリジナルをやることになったんですけれど、そのときにshezooさんから「真奈美さんはバッハは歌わないの?」って聞かれたんですね。

 私、“バッハを歌う”という意味がよくわからなかった。それで「歌ったことはありません」って答えたんですが、そうしたら「実は……」って、〈マタイ受難曲〉の企画を考えていて、何曲か歌ってもらえないか、と。

 もう、「はぁ?」でしたね。それが2017年のこと。

〈マタイ受難曲2021〉で“歌い手”としてステージに立つ石川真奈美(撮影/写真提供:永島麻実)
〈マタイ受難曲2021〉で“歌い手”としてステージに立つ石川真奈美(撮影/写真提供:永島麻実)

♬ 引き受けてから気づいたタイヘンさ

 〈マタイ受難曲〉を歌うというお誘いは、とても魅力的でした。おもしろいに決まっている、って。で、引き受けてしまってから、それがいかにタイヘンなことかに気づくわけです。

 最初にいただいたのが、アルトが歌う「Erbarme dich(憐れみたまえ,わが神よ,したたり落つるわが涙のゆえに)」と、〈マタイ受難曲2021〉のときも歌った「Mache dich, mein Herze, rein(わが心よ,おのれを清めよ)」、これはバリトンの曲なんですけど、オクターヴ上げると声域的にはちょうどいいということではあったんですが、まぁ難しい。ドイツ語でなんか歌ったこともなかったですし。さらに、そのあとも「この曲もこの曲も」と、どんどん送られてくるわけです。

 もう、心臓バクバクですよ、絶対にまともに歌えないだろう、って。このプロジェクトって、ステージにいる人の“受難”を見せることが目的なのかなと思っていたぐらい……。それを楽しみに見ていらしたお客さまもいたのかもしれませんね。

 そうこうしているうちに「ホールでやります」という話が出てきて、その時点でも私は、shezooさんが一体どこまで、なにを求めていらっしゃるのかがわからなくて悩んでいました。まぁ、いまでも完全に理解できたわけではないと思うのですが……。

 ただ、実際にほかの歌手の3人が歌っているのを聴くと、明らかに"彼女たちの歌"だって、私には感じられた。私も端からはそう聴こえたかもしれませんけれど……。私らしく歌ってほしい、というshezooさんのオファーに応えるにあたって、"〈マタイ受難曲〉を崩して歌う"という選択肢は私にはなかった。この歌詞はどのような意味をもっているのかを考えて歌うことぐらいしかできなかったですね……。

♬ 本番直前でいろいろなことが明らかに

 いちばん衝撃だったのは、ゲネプロ(本番同様に舞台上で行なう最終リハーサル)で初めて、台本に書いてあったセリフをエヴァンゲリストが演じると知ったとき。shezooさんが書かれた台本と〈マタイ受難曲〉の曲がパラレルワールドのように進行するという話はうかがっていたし、台本も先に渡されていたんですが、読んだだけではそれが想像できなかった。実際にゲネプロで千賀さん(千賀由紀子、エヴァンゲリスト・語り)と西田さん(西田夏奈子、エヴァンゲリスト・語り)がそのセリフを語っているのを見て、ようやく納得したというかビックリしたというか……。

 私も前説みたいな内容をしゃべる場面があったんですが、shezooさんからは「そこでは一切、感情を込めないでください」って言われていたんです。エヴァンゲリストが語っている場面とはぜんぜん違う世界の話なんだから、って。そのあとは自分の感情を出して歌っていいですよ、という指示でした。それも本番直前ぐらいのタイミングで言われたんですけど。

 そういう意味で、この〈マタイ受難曲2021〉は、ジャズと同じだったというか、ジャズって毎回毎回、違いますよね、同じ曲をやったとしても。クラシックだと“完成形”があって、それをめざすものなのでしょうけれど、shezooさんの〈マタイ受難曲〉プロジェクトはやっぱりジャズなのかな、って。

 そもそも台本の内容が社会状況によって変わらざるをえないものだから、次に上演するときには、また違うパラレルワールドが生まれるはずですよね。もう、どこに行っちゃうんでしょうねぇ、〈マタイ受難曲〉プロジェクトは。

〈マタイ受難曲2021〉公演終了後のオフショット(撮影/写真提供:永島麻実)
〈マタイ受難曲2021〉公演終了後のオフショット(撮影/写真提供:永島麻実)

Profile:いしかわ まなみ ジャズヴォーカリスト

東京都出身。4歳からピアノを始める。ミュージックカレッジ・メーザー・ハウスに入学(1989年)、後藤芳子にジャズヴォーカル、板橋文夫にジャズピアノを師事。混声ジャズヴォーカルグループ“Breeze”を結成(1993年/1998年に脱退)。「ツムラジャズボーカル賞」新人賞を受賞(1995年)。ヴォーカルユニット“a・i (エー・アイ)”を結成(2005年、w / 矢野眞道、中村早智)。アルバム:『FOOT STEPS』(1997年)、『THE WAY OF LIFE』(2014年)、『THE WAY OF LIFE 2』(2015年)、HUES(ヒューズ、w/ 永井朋生 / パーカッション、土屋秀樹 / ギター)『in hue notes』(2015年)、vocal unit a・i『now is the time』(2018年)、玉響(たまゆら w / 太宰百合 / ピアノ、前原孝紀 / ギター)『tamayura』(2021年)。

石川真奈美(撮影:Makoto Hotate)
石川真奈美(撮影:Makoto Hotate)

音楽ライター/ジャズ評論家

東京生まれ。学生時代に専門誌「ジャズライフ」などでライター活動を開始、ミュージシャンのインタビューやライヴ取材に明け暮れる。専門誌以外にもファッション誌や一般情報誌のジャズ企画で構成や執筆を担当するなど、トレンドとしてのジャズの紹介や分析にも数多く関わる。2004年『ジャズを読む事典』(NHK出版生活人新書)、2012年『頑張らないジャズの聴き方』(ヤマハミュージックメディア)、を上梓。2012年からYahoo!ニュース個人のオーサーとして記事を提供中。2022年文庫版『ジャズの聴き方を見つける本』(ヤマハミュージックHD)。

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