サッチャー元首相亡くなる ―今も英国に影落とす「遺産」とは
英国で初の女性の首相で、11年にわたる長期政権を維持したマーガレット・サッチャー(在任1979-90年)が、8日、療養のために滞在していたロンドンのリッツ・ホテルで亡くなった。享年87だった。
BBCの政治記者ニック・ロビンソンは8日付のブログで、サッチャーは「愛情と憎しみと言う2つの感情を国民の間に引き起こす女性」首相であった、と書いた。
ー欧州問題に影落とす
サッチャーの「遺産」は現在でも政治や社会の様々な局面で顔を出す。
具体例の1つが英国の対欧州政策だ。
1980年代、EC(欧州経済共同体、後の欧州連合=EU)は域内での市場統合、さらには通貨統合から政治統合へと向かう動きを議論していた。
サッチャーは通貨統合への環境整備となる欧州為替相場メカニズム(ERM)への参加や、その先の政治統合に対し、強く反対の姿勢をとった。その強硬な反欧州の姿勢に加盟賛成派のローソン財務相が辞任し、同じく賛成派で長年サッチャーに忠誠を尽くしてきたハウ外相が実質的な 権限がない副首相に更迭された後、90年11月、辞任した。
ハウは議会での辞任演説で強い口調でサッチャーの独善的政治手法を批判。その演説から2週間も しないうちにサッチャーは首相の座を失った。
「過激なほど反欧州の右派政党」―そんなイメージが、その後も保守党について回った。
サッ チャーを引き継いだメージャー政権を経て、1997年、18年間の野党生活の後に成立したブレア労働党政権は、当初、親欧州の姿勢を見せた。しかし、EU の共通通貨ユーロへの参加を見送ったことで、欧州との間に一定の距離を置く、相変わらずの政治姿勢となった。
2010年発足の連立政権 で首相となったキャメロン保守党党首は、2011年末、欧州債務危機を収拾するための欧州理事会会議で、財政安定化に向けての基本条約には参加しないことを決めた。ドイツ、フランスの両国はEU27カ国全体の合意となることを望んだが、英国が反対したためにEU条約の改定とはならず、一部関係国間での合意を目指すことになった。
この一件は英国では「キャメロンが(条約改定に向けて)拒否権を発動した」と報道された。キャメロンが「国益のために合意しないことにした」と説明すればするほど、反欧州強硬派サッチャーの影が色濃く見えるようであった。サッチャーはEC農業補助金にかかわる割戻金を獲得するなど、自国の利を最優先したからだ。
もともと、独立独歩の精神が強 い英国民の中にはEUへの不信感が強く、「欧州懐疑派」が少なからず存在する。キャメロンの交渉手法は「稚拙だった」という声が政界、メディア界では強かったものの、「拒否権発動」以来、キャメロンおよび保守党の支持率は上がった。
保守系歴史学者ニアール・ファーガソンは「英国がEUから脱退しても問題はない」、「むしろその方が経済的、政治的に好都合」と述べた。
ユーロ圏の混迷が続く中、欧州統合には一定の距離を置くのが得策として、「やっぱりサッチャーは正しかった」という声が一部で支持を広げている。
―国を二分した首相
昨年1月には、伝記映画「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」(原題「The Iron Lady」)が、英国で公開となった。
映画公開日、イングランド北部ダービシャーで数十人の元炭鉱労働者たちが抗議デモを行った。プラカードの一つには「真の鉄の女た ち」と書かれていた。
映画は「サッチャーが男性優位の既得権を持つ層に勇敢にも立ち向かい、男女同権運動の主導者であったかのように描いている」が、これが「まったくの虚構だ」ということを訴えたかったという。
サッチャーは国営企業の大規模な民営化を続々と実行し、労働法の改正によっ て労働組合を改革した。
公営住宅の払い下げによる住宅取得を奨励して中流階級の拡大を目指す一方で、採算の取れないビジネスとなっていた炭鉱を閉鎖し、大量の失業者を生み出した。
イングランド地方北部、スコットランド、ウェールズ地方は、炭鉱閉鎖や製造業の衰退でもっとも大きな影響を受けた地域である。住民は、サッチャー政権が貧富の差を拡大させたことを忘れていない。
キャメロン政権は政府債務の削減に躍起で、緊縮財政を実行中だ。大幅な公的部門の雇用削減や地方自治体の予算削減で打撃を受けやすいのが、官の雇用の比率が高いイングランド北部。ロンドンがあるイングランド南東部と比較して、北部は失業率が高い。
英国の中で南北に経済格差がある状況は数世紀にわたって変わらないが、人々の記憶に残っているのは、サッチャーの自由主義的経済政策が失業や貧困などの痛みをもたらしたことだ。
北東部での雇用創出のために、「人権擁護の面では不十分な(外国の)政権」にも、「武器売却を行う」必要性があるー。11年末、こうした言及がある書類も含め、1981年以降の様々な政府の機密文書が一般公開の運びとなった。
武器売却にかかわる一連の書類を分析したBBCラジオ4の特別番組「UKコンフィデンシャル1981」によると、イラン・イラク 戦争(1980-88年)時に、英国は戦争には加担せず、中立であること、両国どちらにも弾薬などの殺傷兵器を売却しないなどの取り決めを政府として掲げていた。しかし、「大きな市場となる可能性」(政府筋)から、「殺傷兵器」の定義を「できうる限り狭める」ことを、サッチャーのお墨付きで、政権内で極秘に合意したという。
「中立」の立場から表立って武器売却ができない状態にいた英国に、イラク・フセイン大統領から「英国製戦車を補修し てほしい」と依頼が来る。元は英側がイランに売った戦車だったが、これを戦争中にイラクが獲得したのである。しかし、直接イラクに出かけて補修するわけにはいかないので、第3国としてヨルダンを選んだ。ヨルダンでの補修はまもなくイラクでの作業に取ってかわり、武器売却ビジネスが拡大してゆく。
2003年、ブレア首相が米国とともに攻撃を開始したのはフセイン政権下のイラクであった。何とも皮肉なめぐり合わせだ。サッチャーが撒いた種から育った風土や仕組みの中に、現在の英国民の生活がある。
(筆者のブログ記事に加筆しました。)