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【河内長野市】秋に稚児相撲を行なう鳩原の川上神社には、南朝天皇陵伝説と観心寺との深い関係があった

奥河内から情報発信奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

年末を控え今更ですが、今年は河内長野各地でいろんな秋祭りが復活しましたね。その中のひとつが、10月8日に川上神社で行われた稚児相撲です。

稚児相撲は、生後間もない子ども同士で争う泣き相撲とのことですが、面白いことに勝敗を決めない決まりだそうで、ほとんどの取り組みが「引き分け」でした。

また当日は、この祭礼の出席者向けに、ぜんざいがふるまわれていました。

さらに河南高校の和太鼓部が来ていて、和太鼓の演舞と参加者の子どもたちが太鼓と叩いて楽しんでいました。川上神社の稚児相撲は来年も開催予定で、市内から参加する子供を募集するそうです。

ということで、なかなか貴重な伝統芸能を拝見させていただいたのですが、この時川上神社のことがとても気になったので、日を改めて静かな川上神社に再訪しました。

川上神社の場所をおさらいすると、観心寺から県境の石見川方面に続く大沢街道の途中の鳩原地区にあります。金剛山ロープウェイまでバスが運行しているので比較的行きやすい場所ですね。

川上神社前バス停がありますが、その手前の鳩の原バス停で降りると途中でこのような看板を見つけられます。鳩原地域は縄文時代から竪穴住居跡等が見つかったそうで、山の中なのに相当古くから人が住んでいたことがわかります。

さらにこのような看板があります。鳩原は続日本書紀の文武天皇三年三月に次のような記述があります。引用しましょう。

天皇三年三月 甲子、河内国から白鳩を献ず。 詔して錦部郡に一年租税を免ず、また瑞人犬養広麻呂を獲て、拾三年を復し、また畿内の徒罪を憎んで人を罪己下己を赦す。

飛鳥時代の文武天皇に白鳩を献上したことを瑞象(ずいしょう:めでたいしるし)と喜んだ天皇が、この地域(錦部郡)に対して一年税金を免じたり罪びとを赦したりなどの措置をしたそうで、そこから鳩原という名前が付いたそうです。

さて看板から少し歩くと、川上神社の入口があります。画像の先に小さく鳥居が見えます。

鳥居の前に来ました。少し階段を上ります。

途中、ふたつの地蔵堂がありました。こちらは芥川地蔵尊。

こちらは延命地蔵尊です。

こちらには川上神社の説明文があります。もともとは鳩原神社という名前だったそうですが、1908(明治40)年に河合寺、神が丘、寺元、小深、太井、石見川にあった神社をすべて合祀して地域を代表することで川上神社という名前になったそうです。

拝殿のほうに向かいましょう。稚児相撲の時は多くの人がいましたが、普段は静かです。川上神社に限らず大抵の神社仏閣は、神事も祭もない時は基本的に静かですね。

階段を昇って行きましょう。真ん中には手すりがあるので登りやすいです。

拝殿の前に来ました。稚児相撲の時にはここで神事が行われていました。

中に入りましょう。右手に丸い物が見えますが、あれが稚児相撲で使う土俵のようです。

拝殿の上には階段があり、その上に本殿があります。

拝殿から本殿の様子を見ます。

川上神社は拝殿から本殿まで登って行けます。

途中山の上に道が続いています。

看板があります。本殿のさらに奥の山の上には古墳があり、ご神体のようになっています。高さ約2m、直径約5mの石塚は眞紹律師(しんしょうりっし)の墓と言われていますが、一説には98代天皇で南朝の3代目の長慶天皇陵とも言われています。

観心寺の奥にある後村上天皇陵
観心寺の奥にある後村上天皇陵

宮内庁によれば、長慶天皇陵は京都の嵯峨天竜寺角倉町にある嵯峨東陵とのことですが、長慶天皇が一時期天野山金剛寺に滞在した時期があることや先代の御村上天皇の陵墓が観心寺の境内奥にあることから、天皇陵説が嘘とは言い切れない気がします。但し長慶天皇陵は全国各地に伝承が残っています。

さて、コンクリートの道を登っていくと、

本殿の前に出ることができました。

拝殿側から見えた扉の反対側に行くことができたんですね。

こちらが川上神社の本殿です。祭神は素盞嗚尊(スサノオノミコト)とのこと。

本殿の左横にある社は鬼住神社です。神ガ丘(旧鬼住村)からこちらに鎮座したものと考えられます。

右側にあるのは恵比寿神社です。

また境内の途中に夫婦杉がありました。

夫婦杉は金剛山の山頂にもありましたが、川上神社の夫婦杉も立派ですね。

夫婦杉をしばらく眺めてから下に降りました。

下に降りてきました。画像の場所は秋祭りで太鼓の演舞が行われていたところです。

さて狛犬の後ろにお堂があります。

弥勒寺と書いてあります。眞紹律師が余生を過ごしたと伝わる場所です。

扁額を見ると檜尾山と書いてありますね。はて、この山号はどこかで聞いたことがありますね。

檜尾山観心寺
檜尾山観心寺

檜尾山は、観心寺と同じ山号です。調べると弥勒寺は観心寺の奥の院として、眞紹律師が建てたそうです。眞紹律師自身は空海の弟子で2世とか3世住職のように言われていますが、実質的に観心寺を創建した人物とのこと。

眞紹律師は観心寺の住職を弟子に譲ってから川上(当時は鳩原)神社傍の奥の院で余生を過ごし、死後に川上神社の奥の神域に葬られてお墓となったのではと言われています。

かつて観心寺の一部だったとされる岩瀬薬師寺で年に一度の御開帳
かつて観心寺の一部だったとされる岩瀬薬師寺で年に一度の御開帳

川上神社のある所は観心寺七郷と呼ばれていて、かつては観心寺の領地だったところです。よく考えたら、今でも深いつながりがあるような気がします。

観心寺の奥の院を創建する際に、文武天皇の白鳩献上の地だった鳩原神社(川上神社)の横にと眞紹律師は考えたのでしょうか?江戸時代までは神仏習合していたので神社の横に寺があっても不思議ではありません。

ちなみに現在の弥勒寺は地元の人が管理しているようで、鳩原集会所になっていました。

ということで秋に4年ぶりに行われた稚児相撲のあった川上神社に改めて訪問し、由来やエピソードを調べました。南朝や観心寺のつながりなど、山の中にある神社の歴史はなかなか興味深かったです。帰りはバス停や駐車場になっているところにある無料直売所で野菜を買って帰りました。

川上神社
住所:大阪府河内長野市鳩原788
アクセス:南海・近鉄河内長野駅からバス川上神社前バス停下車徒歩3分

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奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

河内長野市の別名「奥河内」は、周囲を山に囲まれ3種類の日本遺産に登録されるほど、歴史文化的スポットがたくさんある地域です。それに加えて、都心である大阪市中心部に乗り換えなしで行ける複数の大手私鉄(南海・近鉄)と直結していることから、新興住宅団地が多数造成されており、地元にはおしゃれな名店や評判の良い店なども数多くあります。そして隣接する富田林市もまた、歴史文化が色濃く残る地域。また南河内地区の中核都市として、行政系施設が集まっています。これを機会に、奥河内(一部南河内含む)地域に住んでいる人たちのお役に立つ情報を提供していければと考えています。どうぞよろしくお願いします。

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