Yahoo!ニュース

【九州三国志】門司城をめぐる攻防!大内家の滅亡と北九州を巡る覇権争い

華盛頓Webライター
credit:pixabay

15世紀、大内氏は中国地方から豊前国に勢力を広げ、門司半島を確保しつつ博多との交易路を守りました。

しかし、豊後国の大友氏は天文元年(1532年)以降、大内氏と豊前で幾度も衝突を繰り返します。

この緊張関係は、大内義隆が家臣・陶晴賢の謀反で自害(1551年)し、大友義鎮の弟・大友晴英(大内義長)が新たな当主となることで新たな局面を迎えました。

義長の支配は陶晴賢の後見に依存していましたが、弘治元年(1555年)、陶晴賢が毛利元就に厳島で敗死すると、大内家は急速に崩壊。

弘治3年(1557年)、義長も自害を余儀なくされ、大内家は滅亡します。

この混乱の中で、大友義鎮と毛利元就は北九州の支配を巡って激しく対立します

門司城を巡る攻防はその象徴であり、義鎮は門司城の奪取を目指し、苅田松山城への攻撃を経て門司城を確保しました

門司城の制圧により、大友氏は九州北部の勢力拡大を図りましたが、毛利元就もまた秋月氏や筑紫氏らを味方に引き入れ、九州進出を狙いました

この激しい争いは、関門海峡と瀬戸内海を巡る制海権を賭けた西国支配の一幕として、戦国史に刻まれています。

Webライター

華盛頓です。以前の大学では経済史と経済学史を学んでおり、現在は別の大学で考古学と西洋史を学んでいます。面白くてわかりやすい記事を執筆していきます。

華盛頓の最近の記事