梅宮辰夫とロバート秋山の奇妙で深い縁
梅宮辰夫が12日、神奈川県内の病院で亡くなったと報じられた。81歳だった。
その梅宮辰夫の顔写真パネルを使った「体モノマネ」は、ロバート・秋山竜次の代名詞のひとつ。それを行う前、秋山側から梅宮辰夫に顔写真を使っていいかという問い合わせがあったという。それに対し、梅宮はこう答えた。
梅宮と秋山の縁
梅宮と秋山の間には奇妙な縁があった。
梅宮は1958年、東映の第5期ニューフェイスとしてデビュー。後輩の波多伸二の代役として出演した『殺られてたまるか』をきっかけに共演の三田佳子と「ゴールデン・コンビ」と呼ばれるようになり注目を浴びた。『夜の青春』シリーズ主演を経て68年から始まったのが、彼の代表作のひとつとなる『不良番長』シリーズだった。
周りは血気盛んな後輩たちばかり。夜通し呑み撮影に遅刻するのは日常茶飯事だった。そこで梅宮は「撮影所の門のところに、バットを持って立っていましたよ。亡くなった安岡力也のケツとか、何度も叩いた」(「ザテレビジョン」16年5月10日)という。まさに“不良番長”だ。
その「不良番長」シリーズで、梅宮と“共演”をしているのが、実は秋山の父なのだ。彼は大部屋俳優として梅宮と同じシーンに出演していた。父にとって梅宮は神のような存在だった。
体モノマネ誕生
それから約40年後。
「なんだ、その大御所みたいな体は! 年齢と体が合ってないんだよ!」
劇場の楽屋で着替えていると、秋山は先輩芸人「ニブンノゴ!」宮地謙典からよくイジられていた。それがずっと頭の中にあった。
ある時、大阪の番組に呼ばれた際、トリオネタではなく何かピンネタをやってほしいというオファーがあった。その時に、もしかしたらこのアンバランスな体がネタとして成立するかもしれないと、スタッフに梅宮辰夫の顔パネルを発注した。すると、当日現場に行って驚いた。顔に当ててみるとサイズから表情まで奇跡のようにピッタリだったのだ。
それが「体モノマネ」誕生の瞬間だった。
当時ロバートは「キングオブコント2011」で優勝したものの、バラエティ番組で、自己紹介的なネタを要求されても、コントの場合、どんなに短くしてもそれなりに時間がかかってしまうからそぐわない。一発ギャグも考えたが、うまくいかなかった。だからそこが「芸人として自分の一番弱いところだと思っていた」(「THE PAGE」14年5月25日)という。それを一気に解消したのが「体モノマネ」だった。
「最初にそこからイジってもらえますんで、それがすごく助かるんです。瞬時に笑いにつながりますし」(同)
梅宮辰夫の反応
そうして秋山は梅宮辰夫の体モノマネを始めたが、写真を使う許可だけはもらったが、なかなか本人に直接挨拶する機会がなかった。
それが訪れたのは約半年後。
ロバートがレギュラー出演していた『ザキロバ!アシュラのススメ』(名古屋テレビ)にスペシャルゲストとして登場してくれることになったのだ。自分のネタをどう思っているのだろう。戦々恐々として挨拶に行くと梅宮は「お前か、俺の顔を使ってるのは」と言って続けた。
秋山は「恩返しなんておこがましい」と前置きをしつつ、言葉がいらないこのネタの特性をいかし「いつの日か、僕が自分の体を使ってジャパニーズスター・梅宮辰夫の顔を世界に発信」(同)したいという。
一方で、梅宮は、自分は半ば芸能界を引退している身だと語り、かつて映画で“共演”した秋山の父に対してこう語りかけた。
先輩を後輩が“利用”し、それが結果的に、先輩への恩返しになる。
梅宮の懐の深さが先輩・後輩の幸福なサイクルを生んだのだ。
(※本稿は2018年11月10日の「日刊ゲンダイ」に掲載されたものを加筆修正したものです)