【九州三国志】隆信の野望と冷酷な手腕!勢力拡大と、最後の行方
天正6年、大友宗麟が耳川の戦いで敗れると、龍造寺隆信はこの混乱を好機と見なし、領国を広げる大冒険を開始しました。
筑前、筑後、肥後、豊前の4国を勢力下に収め、ついに戦国大名としての地位を確立したのです。
しかしその過程で、蒲池鎮漣の謀殺や赤星一族の皆殺し、さらには幼い人質さえも容赦なく手にかけたことで、その冷酷さが麾下の将兵にさえ恐れられるようになります。
そんな隆信の野望は、島津氏との対峙でも燃え盛りました。
天正11年には、島津方と高瀬川を挟んで大軍を率いて対峙しますが、秋月種実の仲裁で和睦が成立。
しかし隆信は、島津と戦うことなく講和したことに激怒したといいます。
そして運命の天正12年、隆信は島津・有馬連合軍との決戦に挑みました。
2万5千の大軍を率いる彼でしたが、巧妙な策により隘路で挟撃され大敗。
ついに島津家久の家臣・川上忠堅の手によって討たれました。
その後、隆信の首は願行寺に葬られたものの、その行方には諸説あると言われています。
隆信の野心に彩られた人生は、戦国乱世の栄光と悲劇を象徴するものであったと言えるでしょう。