【九州三国志】忠節尽くし、戦乱の世を駆け抜けた武人!大友家の砦、道雪の最期に寄せて
天正6年(1578年)、大友宗麟は島津氏討伐を決意し、日向へ侵攻します。
しかし、道雪はこの方針に反対し、従軍しませんでした。
結果として、耳川の戦いで大友勢は大敗を喫し、多くの名だたる武将が討ち死にします。
この報を受けた道雪は、宗麟や嫡子・義統の判断を厳しく批判しました。
それでも彼は、大友家の武将として島津氏や周辺勢力に立ち向かう覚悟を固め、高橋紹運と共に戦いの前線に立ち続けたのです。
翌年には宗像氏や麻生氏、原田氏の反乱を鎮圧し、天正8年(1580年)には筑前の龍造寺勢力と和睦することで一時的な安定を得ます。
しかしその後も大友家の衰退を背景に、戦火は収まるどころか拡大の一途をたどっていきました。
天正12年(1584年)、沖田畷の戦いで龍造寺隆信が島津に敗北すると、道雪と紹運は大友義統の命を受けて失地回復に動き出します。
道雪は筑前から筑後へと急行し、高牟礼城や犬尾城を落とすなど戦果を挙げました。
猫尾城や周辺諸城の攻略では、短期間で次々と拠点を制圧し、戦局を大友有利に進めたのです。
しかし、柳川城を中心とする龍造寺勢力の勢いは強く、攻略の進展には苦しみます。
道雪は何度も筑後の地を転戦し、草野氏や星野氏の拠点を攻め落とす一方、戦いの激しさは家臣や一族にも多大な犠牲を強いました。
善導寺の戦いでは重臣を失い、筑後川周辺の戦局も膠着状態に陥ります。
それでも道雪は指揮を執り続け、劣勢の中で戦い抜きました。
天正13年(1585年)、龍造寺氏や秋月氏、星野氏ら連合軍との戦いが続く中、道雪は高良山の陣中で病に倒れました。
高良大社での祈願や高橋紹運による看病もむなしく、9月11日、ついに73年の生涯を閉じたのです。
その最期の辞世は、「異方に、心引くなよ、豊国の、鉄の弓末に、世はなりぬとも」と詠み、戦乱の中でも大友家に尽くし続けた自身の生き様を示しています。
道雪の死後、大友義統はその功績を讃え、遺族をねぎらう書状を送りました。
その中で、道雪の生涯を「忠節の極み」と評し、その不在が大友家にとってどれほどの痛手であるかを深く嘆いたといいます。
道雪の人生は、戦国乱世の縮図ともいえるものでした。
宗麟や義統の暴走に苦言を呈しながらも、主君への忠誠を貫き、家臣としてその責務を全うしたのです。
特に耳川の敗北以降、崩れかけた大友家を支え続けた彼の姿は、まさに「大黒柱」と呼ぶにふさわしいでしょう。
戦乱の嵐が吹き荒れる中で、彼の存在は大友家にとって最後の希望であり、灯火であったのです。
立花山を拠点に、道雪が切り拓いた道は、後に婿養子となる立花宗茂らによって受け継がれ、立花家としてその名を後世に残すことになります。
戦国という荒波の中、道雪が見た未来は、確かにその先に息づいていたのです。