「買えなくなって困っていたの」地元住民の要望に応え継承した福島県川俣町のローカル納豆事業#知り続ける
福島県川俣町は、2011年3月の東京電力福島第一原子力発電所の事故から約6年間、避難指示の対象となっていた。この町の山木屋地区にある納豆製造工場の社員だった影山一也さん(41)は、避難指示が解除されると先代社長から工場を受け継いだ。自身のブランドで新たに納豆を売り出したが、避難した住民はなかなか戻らず、高齢化も進んで苦戦が続く。それでも、根強いファンに愛された地域の食文化を守ろうと、販路拡大に取り組んでいる。住民の思いを背に奔走する影山さんは、事業を軌道に乗せることができるのか?(Yahoo!ニュース ドキュメンタリー)
影山さんと納豆にかける思い
東日本大震災が起きるまで、川俣町山木屋地区には1200人ほどの住民がいた。2017年3月末に避難指示が解除されても、いまだに330人ほどの住民しか戻っていない。影山一也さんは、その地で先代から引き継いだ納豆工場をリニューアルし、2023年4月に納豆屋「山乃屋」として新たに開業した。
小粒・中粒・大粒の3種を取り揃えるオリジナルブランドで、いずれも大豆の甘味とうまみを存分に味わえ、納豆特有のにおいを抑えているのが特徴だ。北海道産に加え、県内の鮫川村産の「ふくいぶき」などの高級大豆を使用。「たしかな味を手頃な価格で楽しんでいただく」をモットーに製造販売している。
この工場は、もともとは自動車部品を製造していた。だが、高齢化した社員が細かな部品を扱うのが難しくなってきたことから、1985(昭和60)年ごろから視力が弱くなっても扱える豆腐の製造に乗り出した。影山さんが現在つくっている納豆は、先代の教えをもとに独自に開発した商品だ。先代のころから、「この納豆は本当においしいんだよね」「ここの納豆しか食べられないから、遠いけど買いに来たんだ」という客の声を聞き、この地域で納豆がいかに愛されているか、身をもって感じてきた。
影山さんは震災を機に、川俣町から生まれ育った郡山市に移った。一方、川俣町には避難指示が解除されると住民が戻りはじめたが、高齢となった先代は事業廃止を決断。だが、「納豆屋をなくさないでほしい」という地元住民らの声は強く、その思いに応える形で影山さんが納豆事業を継承することにした。
納豆や川俣町への震災の影響
そんな思いでスタートした山乃屋の納豆だが、そこまでの道のりは順風満帆ではなかった。
先代のころに納豆製造部門で中核を担っていた技術者たちは、震災から避難解除までの歳月の中で、仕事に復帰することができなくなってしまっていた。影山さんが工場を継ぐ直前には、いわき市の焼肉店がこの工場で店舗を開いた。影山さんはその社員として納豆づくりをしていたが、1年余りで焼肉店は撤退。人口が激減した地域で飲食業を続ける難しさを痛感した。
いま、町内を見渡してみると、徐々に成果をあげ始めた事業者もいる。イチゴ狩りフェアを開催して盛り上げようとする農家、新技術で熱帯に咲くアンスリウムの栽培に成功した花き生産者、物産展などで特産品として認知度を上げている「川俣シャモ」の生産者らだ。
彼らの活動に刺激を受け、影山さんは厳しい状況でもやり方次第で打開策は見えるのではないかとの希望を持っている。「この土地で頑張って事業を続けて盛り上げている人たちに、負けていられないと思いましたね」
販売先は、先代から受け継いだ工場前の自動販売機と、以前から取引のあったスーパーなどに限られていた。待っていても十分な売り上げが立たないなら、新たに販路を開拓すればいい――。影山さんの新たな挑戦がスタートした。
従業員は自分一人。手が回らないときは、妻に手伝ってもらう。郡山の自宅から工場までは車で約2時間。その長い道のりも、影山さんは前向きに捉えている。「自然がきれいで、通勤中も心が和みます。何よりも移動していると、新しい店舗を見つけて『営業してみようかな』とかビジネスアイディアがひらめくじゃないですか。それがいいんですよ」
ただ、「正直いって経営はギリギリ」という。売り上げを軌道に乗せ、持続可能な経営状態をキープしつつ、従業員も雇用していく。こうして事業を拡大していかなければ、キャッシュアウトしてしまう現実も見え隠れしている。
納豆を取り巻く課題と取り組み
2度の生産中止で離れた取引先の新規開拓と販路拡大。これらの課題を乗り越えるべく、影山さんはまず新商品の開発とブランディングに着手した。粘り気や納豆特有のにおいが少なく、納豆嫌いの人でも食べやすい。このコンセプトは、先代から継承した。菌の量や発酵時間のバランスなど、さまざまに試行錯誤しながら改良に努めた。また、小粒と中粒の2種類に加え新たに大粒もラインナップ。粒が大きいと味がしっかりし、食べ応えがあるのが特徴だ。ブランド名も「女神の納豆」から「山乃屋納豆」に変えた。自然豊かな山木屋で、納豆製造を続けていくとの思いを込めた。若い客に手に取ってもらいやすいよう、パッケージも紫から赤、黄、緑と信号機をイメージしたカラフルな色彩に一新した。
販路拡大に向けての営業活動も始まった。高校卒業後にしばらく続けていた携帯電話販売で培った経験をもとに、スーパーやドラッグストア、道の駅に飛び込みで交渉したり、電話営業をかけたりした。こうして販路も少しずつ拡大していった。
奮闘する姿を見て、昔からの販路の一つである福島県観光物産館の担当者はこう話す。「先代が納豆製造をやめて、物産館のお客さんたちからも残念がる声が多く聞こえた。こうして事業を継承していただいてうれしい。私たちでもできる限りサポートしていきたい」。観光物産館では入荷とともに飛ぶように売れる日が続いており、一般商品の中でもナンバーワンの売り上げとなっているという。
地道な努力が実り、影山さんの納豆は首都圏を中心に高品質を売りにするスーパーマーケット「クイーンズ伊勢丹」の「福島県フェア」に出品された。2024年2月の1週間の期間中にチェーン各店舗に出荷された納豆は、約2000食に上った。
「この規模の注文を継続していただければ、従業員も雇用できますし、新たな事業展開も打っていける。大事にしたいですね」
フェア期間中、影山さんは川俣町から約4時間かけて東京・新小岩の店舗を視察に訪ねた。売れ行きは好調で、店長の竹内亮平さんは「飛ぶような売れ行きで、今日も商品が足りなくて別の店舗から補充したくらいですよ」という。影山さんの納豆を買った客からは、「納豆というと地味なイメージだが、派手なパッケージに惹かれた」という声のほか、こんなコメントも聞かれた。
「食べることで被災地を応援したいから」
今後の展望と震災で過疎化してしまった地域へ事業をやっていく思い
2024年1月1日に発生した能登半島地震では、福島と同じように地域の産業の多くが深刻な打撃を受けた。クイーンズ伊勢丹は、福島に加え能登半島地震で被災した石川、福井、富山、新潟各県のフェアも検討しているという。そうした応援はあったとしても、やはり過疎に悩む地域で産業を復興させるには、長く、厳しい道のりが待っている。
復興途上の過疎地という厳しい条件の中、影山さんはなぜ、事業継承の道を選んだのか?
「やはり、応援してくれる方がいるからですね。『買えなくなって困ってるのよ』と僕より先に帰還した方々に言われると、どうしてもその声に答えたいと思って」
影山さんの挑戦は続く。
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【この動画・記事は、Yahoo!ニュース エキスパート ドキュメンタリーの企画支援記事です。クリエイターが発案した企画について、編集チームが一定の基準に基づく審査の上、取材費などを負担しているものです。この活動はドキュメンタリー制作者をサポート・応援する目的で行っています。】