Yahoo!ニュース

南海トラフ地震の「発生シナリオ」を考えてみる ー【その5】より良い復興で日本再生

福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長
(写真:アフロ)

人口減少と高齢化が進む中での国難ともいえる災害

 南海トラフ地震の発生確率の考え方は色々ありますが、時間予測モデルに基づくと、昭和の地震から次の地震までの平均的な期間は88.2年とされ、今後30年間の地震発生確率は70~80%とされています。一方、国立社会保障・人口問題研究所の試算によると、2040年の日本の人口は約1億1000万人で、1.5人の現役世代が1人の高齢世代を支える社会になり、高齢世帯の4割が単独世帯となるようです。また、日本創成会議によれば、2010年に比べ出産年齢の女性が半減する消滅可能性自治体の数が896に達するとされています。

 これらを勘案すると、南海トラフ地震からの復興では、人口減少と高齢化、地方の衰退などの課題を解決する機会と捉え、より良い日本の未来を描くという態度が大切になります。

関東地震のあとの日本の軍国主義化

 南海トラフ地震の経済被害は、最悪、220兆円を超えるとされています。国内総生産の4割にも及ぶ被害ですが、同規模の経済被害を出した災害に1923年関東地震があります。そこで、関東地震後の復興や日本社会の変化を見ておこうと思います。

 関東地震の前、日本は大正デモクラシーの時代でした。第一次世界大戦は1914年にはじまります。1917年には東京湾台風によって東京湾周辺の低地が高潮災害に見舞われ、千人以上の犠牲者が出ました。1918年から20年には、スペイン風邪が世界中で蔓延し日本でも40万を超す人が落命しました。

 こういった中、1923年関東地震が起き、東京・横浜を中心に10万5千人余の犠牲者を出しました。震災後には、後藤新平を中心に帝都復興計画が立案され、その後、計画の規模は縮小されたものの、近代都市・東京の基盤が整えられました。将来を見据えた復興のおかげで、今の東京があります。台湾や南満州の植民地経営や東京市長を経験した後藤新平の構想力に負うところが大きかったと思います。

 ですが、地震後、自然災害が続発し日本社会は窮地に陥りました。1925年北但馬地震、1926年十勝岳噴火、1927年北丹後地震、1930年北伊豆地震、1931年西埼玉地震、1933年昭和三陸地震、1934年函館大火、室戸台風などが続発しました。このため、金融恐慌、満州事変、国連脱退、二・二六事件と続き、とうとう1937年日中戦争、1941年太平洋戦争に突入しました。

時代の大きな転換期

 コロナ禍の中で、社会の価値観が変わりつつあります。人の移動を前提とした対面会議から通信を介した電子会議、オフィスワークからテレワーク、集中から分散、相互依存から自律、効率から適度な余裕、行き過ぎた自由から適度な制約、経済優先から安全重視、グローバルからローカルなど、価値観の変化を感じます。デジタルトランスフォーメーション(DX)やカーボンニュートラル(CN)の考え方も浸透し始めています。情報通信と脱化石エネルギーの社会は、東京一極集中を是正し、元気な地域づくりにつながります。自律・分散・協調型の国土構造を作ることができれば、災害被害軽減の道とも重なります。

 人口減少と地方移住が進めば、都会の危険地からの撤退も容易になります。地方創生が進めば、中山間地を活用して食料自給率の向上も期待できます。固体電池の開発が進めば再生可能エネルギーが普及しエネルギー自給率も高まります。まさに、自律・分散型の事前復興計画そのものです。安全な場所に強靭化した便利なコンパクト×ネットワークの国土を作り、コンパクトシティから外れたグリーンフィールドには、ライフラインに依存しない自立住宅を作ればよいと思っています。

 わが田舎家も、太陽電池、燃料電池、蓄電池、井戸、浄水装置、畑を備えることで、徐々に自立化を進めています。将来、空飛ぶ車が普及すれば、道路の維持も要らなくなります。

準備ができているところから復興が始まる

 震災後に復興計画を考えていては計画づくりに時間がかかります。事前に十分に練られた復興計画があれば、優先的に復興予算が措置されるでしょう。逆に、合意形成に時間がかかれば、まちを離れる人が増え、復興を放棄することにつながりかねません。復興計画で重要な役割を果たす土地区画整理や高台移転、盛土造成、堤防の建設などには、合意形成に時間がかかります。

 復興まちづくりの基本は、「彼を知り己を知れば百戦殆からず」と「災い転じて福となす」です。大きく被災した場所は、真っ白なキャンバスですから、理想的なまちづくりのチャンスです。危険な場所を避け、安全な場所に強靭なまちを作れば、その後の国や社会の発展ができます。地震による被災で国際競争力を失った産業を復活させるきっかけにもなります。持続発展可能な未来につながるまち作りを、今から考えておきましょう。

名古屋にみる復興の歴史

 私が生活する名古屋は、震災復興や戦災復興の優等生です。そもそも名古屋のまちは、1610年の清洲越しで、清洲城下を熱田台地に町ごと高台移転したことに遡ります。1586年に起きた天正地震で、五条川畔の清洲城が液状化などで被災したことが、引っ越しの一因だと思います。熱田台地の南端に1900年を超える歴史のある熱田神宮、北端に名古屋城を構える名古屋の城下は安全な洪積台地上に作られました。おかげで、1707年宝永地震、1854年安政地震では、名古屋城下の被害は軽微に留まりました。城郭内に作られた帝冠様式の愛知県本庁舎と名古屋市本庁舎は1944年昭和東南海地震も見事に乗り越えています。まさに南海トラフ地震に対する事前復興の優等生です。

 戦災復興でも、戦前に名古屋地方委員会に勤務していた石川栄耀が他都市に先駆けて土地区画整理事業を名古屋市に導入し、終戦直後に名古屋市助役を務めた田淵寿郎が墓地移転と広幅員道路を中心にした大胆な復興計画を立て、モータリゼーションの社会を先見した名古屋のまちができました。戦前の日本を代表する2人の都市計画家による先進的かつ大胆な試みのおかげで、日本の製造業をけん引する名古屋が作られたと思います。

 とはいえ、東南海地震では沖積低地に作られた軍需工場が大きな被害を受け、1959年伊勢湾台風では海抜0m地帯が甚大な高潮被害を受けました。

復興を活用して明るい未来を描く

 近い将来、確実に大きな災害が来ることが分かっています。今のうちに、よりよい復興のための大きな構想を考えて、各地でうまく復興が進む仕組みを整えておきたいと思います。荒唐無稽ですが、その時のために、復興を担う行政技術職員を全国の自治体に配置し、対向支援の自治体を予め決め、震災前から交流を深めて復興戦略を共に作っておき、震災時に被災地を支援することにしてはどうでしょう。震災後には、被災地外の公共事業などを止め、被災地の復旧・復興に集中することで、限られた建設資源を有効活用することを決めておくのもよいでしょう。

 さらに、復興のシンボルとして首都を東京から西日本に移して未来を先取りした首都を作り、国を再生するというような考え方もあります。百年後に関東地震が再来するのに備え、東西が百年ごとに首都を交代して、新たな日本を作っていく仕組みです。こんなことを思いめぐらしてみると、災害後の未来を少し明るく考えることができそうです。

 「災い転じて福となす」ために、いろいろ頭を使ってみてはどうでしょう。あかるく、たのしく、まえむきに、「あ・た・ま」を使って、南海トラフ地震を乗り越えていきましょう。

名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。

福和伸夫の最近の記事