【河内長野市】楠公首塚前で決起する前に天誅組が休憩に立ち寄った油屋跡。高野街道だけでなく奥にも石碑が
河内長野駅方面から高野街道を三日市町駅方面に歩き、旧三日市町交番を過ぎて天見川を渡っていくと右手に石でできた記念碑があります。そこには油屋という大きな旅館がありました。
以前見た資料の中に油屋の記載を見つけました。油屋は江戸時代に紀州藩の本陣だった由緒ある旅館で、高野山の御用宿として栄えたそうです。
1890(明治23)年には山階宮晃親王(やましなのみやあきらしんのう)が油屋に滞在した際に、浴室の下を流れる石川(天見川)両岸の風景がとても素晴らしいと称賛し「錦渓温泉」の名称と御宸筆(ごしんぴつ:皇族の自筆の書)と賜ったとのこと。
そして天然ラヂユーム(ラジウム)温泉旅館として、昭和時代まで経営していたそうです。この油屋で忘れていけないのが、幕末の天誅組との関係です。
天誅組の動きについては、富田林市史(外部リンク)に記載があります。引用しましょう。
富田林市史の記載によれば、天誅組一行は油屋で宿泊したわけでなく、あくまで休憩をしたとのこと。文久3年8月17日の午前3時ごろに天見川を渡って油屋に到着したとあります。西暦では1863年なので今から161年前ほどの話です。
そして5時間ほど休憩を取り、午前8時に観心寺にむけて移動を開始します。
観心寺の後村上天皇陵と楠木正成首塚前で、倒幕に向けた決起をしたとあります。
ちなみに、今は三日市町駅から観心寺の道路は広くてバスも走っていますが、100年前の古地図でも道の存在が確認できました。大師・日東町の住宅がある山と清見台のある山の谷間に古くから道があって、観心寺につながっていたようです。
1975(昭和50)年に油屋旅館が廃業となり、跡地は住宅や駐車場になっています。この場所に天誅組との由緒もある油屋旅館があったことを後世の記録とし、立派な石碑が建てられたというわけです。
ところが先日、南河内地域の郷土研究家の方からの情報で、高野街道にある油屋の石碑とは別の古い石碑があるということを知りました。
油屋は紀州藩の本陣宿だったのでとても大きな旅館で、敷地内に大きな庭があり、浴室から天見川の両岸の絶景が見られました。いろいろな情報を見ると赤で囲まれたくらいの範囲がかつての油屋跡だったようです。
ということで、もうひとつの石碑を探してきました。高野街道から国道に向かう方面に石碑があるようです。
途中大きな石があります。いけず石のようにも見えますが、かつて油屋にあった石なのかもしれません。
また今は住宅が建っていますが、川の手前が油屋の敷地だったと考えられます。その隙間の先に天見川と清水山月輪寺が見えます。
油屋旅館からは天見川の絶景、その景色に映えるようにかつて月輪寺が見えていたのかもしれません。
高野街道からは下りの傾斜になっています。
そして国道近くまで来ると、ついに見つけました。右側に油屋の石碑があります。
こちらです。「油屋本陣天誅組史蹟」と書いてあります。
高野街道にあった石碑と比べて古くからあったように見えます。左横の石灯籠も歴史を感じました。油屋は1975年まで営業していたとのことですから、油屋旅館が営業していたころから敷地内に建てられていた可能性があります。
旅館として油屋を紹介するときに、幕末の天誅組由緒というのは大きなアピールになると思われますので、そういう関係で設置されたものとも考えらえますね。
場所は国道371号線のすぐ近くだったので、油屋旅館の敷地でもいちばん奥にあったと考えられます。
石碑の右側に大きな石灯籠があります。もしかしたらこれも油屋旅館の敷地内の庭にあったのかもしれないと思いました。
ということで油屋跡に残る石碑を見てきました。最初は高野街道沿いの石碑とその奥にある駐車場に旅館があったのかなと思いましたが、調べるともっと広範囲に広がる大きな旅館だったことがわかりました。
油屋本陣天誅組史跡
住所:大阪府河内長野市三日市町1081
アクセス:南海三日市町駅から徒歩5分
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