【木月】「住吉神社」の歴史と見どころ 学問の神を祀る元住吉の神社
川崎市中原区で、夏祭りが一番盛り上がる神社と言えば、元住吉の「住吉神社」と言っても過言ではありません。
ブレーメン通り商店街も一体となって盛り上がる「住吉神社」の夏祭りは、アニメ「恋は雨上がりのように」の舞台ともなっており、中原区の夏のの風物詩です。
今回は、そんな地元の人にも身近な「住吉神社」について、意外と知られていない歴史や見どころを紹介します!
住吉神社の歴史とみどころを解説
今回紹介する「住吉神社」ですが、実は昔は「矢倉神社」という名でした。
創設年はハッキリと分かっていませんが、江戸時代に編纂された新編武蔵風土記稿には「村の記に寛永15年建立せしよしあればこの時始めて造営せしものか」という記述があるので、寛永15年に当たる1638年頃には創設されたのだと言われています。
その後は、増築や改名を経て現在の「住吉神社」として地元民に愛されています。(なぜ改名したのかは、後述)
そして、「住吉神社」と言えば猫!
「住吉神社」は、野良猫がそこら中にいる事で地元では有名です。笑
結構睨みつけてくるので、可愛い感じの猫では無いのですが、「住吉神社」を守っているかの如く、いつも境内でくつろいでいます。
また、住吉神社にひっそりと佇む「忠魂碑」も見逃せません。
忠魂碑とは、明治維新以降に日清戦争や日露戦争をはじめとする戦争や事変に出征し戦死した、地域出身の兵士の記念のために製作された記念碑です。
地元、中原区木月から戦争に行った兵士を祀っています。
なぜ「矢倉神社」から「住吉神社」に名称変更したの??
先ほど「住吉神社」の元の名は「矢倉神社」だったと記していますが、なぜ名前が変わったのでしょうか?
その理由は、「矢倉神社」が合祀した事にあります。
合祀ってなに?
1:いくつかの神を合わせて祀ったり、ある神社の祭神を別の神社で祀ること。
2:骨壺からご遺骨を取り出し、他人の遺骨とまとめて埋葬すること、 合葬とも呼ばれる場合がある。
では、なぜ合祀が行われたのでしょうか。
それには、当時の明治政府体制に原因がありました。
明治政府の国家原則に「神社は宗教ではなく国家の宗祀である」という原則があります。
これは国家神道という「明治政府が作り上げた事実上の国家宗教」のことで、国民に天皇を崇拝させるという形を整えました。
そして、国家神道の元にある神社には各地方公共団体から公費の供進を行わせます。
その公費を抑える為の手段として、合祀が行われたのです。神社の数を減らし、残った神社に経費を集中させる事で一定基準以上の設備・財産を備えさせる事に成功しました。
そして、それによって神社の威厳を保たせ、神社の継続的経営を確立させるという形を取ったのです。
こうして1909年(明治42年)に以下10の神社と合祀して、「矢倉神社」は村の名前を取って「住吉神社」と改名することになりました。
- 天照皇大神宮
- 八幡神社
- 子ノ神社
- 八雲神社
- 春日神社
- 天満神社
- 白山神社
- 稲荷神社
- 諏訪神社
- 神明神社
「住吉神社」の御祭神は学問の神様・菅原道真
今回紹介した住吉神社を含めて、全ての神社には御祭神という神社に祀られている神様がいらっしゃいます。
ここ住吉神社にも天照大御神や須佐之男命など、計10柱もの神様が祀られていますが、その中でも一際目を惹く神様が、現在は学問の神様として崇められている菅原道真です。
北野天満宮や大宰府など様々な場所で祀られており、神奈川では計64もの神社で祀られています。
※この記事は「なかはらPR」より転載しております。オリジナル記事が読みたい方はこちらからご覧下さい。
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