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FCティアモ枚方・二川孝広が現役引退。セカンドキャリアは、監督業からスタート。

高村美砂フリーランス・スポーツライター
JFL最終戦では見事なスルーパスで先制点をアシスト。勝利に貢献した。(筆者撮影)

「大満足。僕には十分すぎる現役生活でした。サッカーをやり尽くした幸せな毎日で、後悔はありません」

 引退を決断した二川孝広に24年に及んだプロキャリアについて尋ねると、清々しいまでに言い切った。

「もともと僕はそんな大きな欲や目標を持たないので。目の前の小さな幸せを得るために地道に一歩ずつ、ただサッカーを楽しんできた。それを24年も続けられたんですから幸せですよ」

 大きな人生の節目を前にしても、感傷に浸る素振りはない。インタビューの最中も「どうやったかなぁ」「もう忘れたな〜」と思いを巡らせては「もういい年やから、とにかく記憶が薄い」と繰り返し笑った。

「過ぎ去ったことはそんなに覚えていないんですよ。いざとなったら…ほら、今の時代はYouTubeがあるから。それを観れば大抵のことはわかるでしょ? 便利やわぁ(笑)」

 久しぶりに聞く『二川節』をどこか懐かしく感じながら、ガンバ大阪時代に幾度となく行ったインタビューでの姿が蘇る。

 ピッチ上では、チームメイトから『変態トラップ』と評された圧巻のボールコントロール力と、空間を切り裂く変幻自在の『パス』で饒舌に『サッカー』を語り尽くしてきた二川だが、ピッチを離れれば一気に言葉数は減り、できる限り目立つ場所から身を隠そうとした。「今日はロングインタビューなのでたっぷり話していただきます」と切り込めば「なら、今のうちにチェンジで!」と返ってきたのはプロ10年目の節目に行った08年のインタビューだ。

「僕の話を聞きたい人なんておる? マニアだけでしょ。ガンバにはもっとロングインタビューに適した人がいるから、呼んできましょうか?」

 他の選手との対談、鼎談では、席に着いた時から「僕がいなくても成立するでしょ? 適当に僕の言葉を挟んでおいてください」と逃げ腰で、「いやいや、言葉のキャッチボールが必要ですから!」と食い下がれば「キャッチボールはもともとしないタイプ」と言ってフフフと笑った。

 そういえば、どんなにスーパーゴールを決めても、彼の周りに輪を作って盛り上がるのはいつもチームメイトで、彼自身はほとんど喜びを爆発させなかったことを思い出し「ゴールが嬉しくなかったわけじゃないですよね?」と尋ねると、驚くような答えが返ってきた。

「勝利につながるゴールならどれも嬉しかったけど…とにかく僕は、目立つのがイヤ。人前に立つのも好きじゃない。理由? 恥ずかしいから。だからゴールを決めても、できるだけ目立たないようにと思って、喜ばないようにしていました(笑)。っていうか、小さなガッツポーズ以上の感情もあまり湧いてこなかったですしね。最近は、みんな個性的なゴールパフォーマンスをしたり、ベンチメンバーと派手に喜んだりしているけど…僕には絶対に無理。あ、でも、一度そのことをサポーターの方に指摘されて『もっと一緒に喜びたいから、ゴール裏に来てください』と言われてからは、(ゴール裏に向かって)頑張って手を挙げるようにはなったな…気づかれていたかわからんけど(笑)。そう考えたら……プロサッカー選手は向いていなかったんやと思う。サッカーは好きやけど、できれば目立たずにそっとやっていたかったというのが本音。楽しくボールを蹴れていたらそれでよかった」

 思わず、今更ですか! とツッコミを入れつつ、「楽しくボールを蹴れていたらよかった」という言葉に二川らしさを見る。まさにプロで戦う厳しさを、サッカーを楽しむことで凌駕してきた24年間のプロサッカー人生。その幕を下ろそうとしている彼の心の中を知りたくて、あの手この手で言葉を引っ張り出した。

■引退の決断と新たなチャレンジ。向いていないと思ったら失踪?!

―現役生活、お疲れさまでした。まずは、引退を決めた理由を教えてください。

19年にFCティアモ枚方に加入してから、少しセカンドキャリアに足を踏み込んだような環境というか、サッカースクールでのコーチなど、仕事を並行してやりながら選手をしてきた中で毎年、引退しようかな〜どうしようかな〜と思いながらプレーしてきましたから。その中で今回、クラブから監督という次のキャリアを提案されて、面白そうだしやってみようかなと思い、それなら引退だな、と。基本的に選手を引退したら何をやるにしても…それが、知っている世界でも、知らない世界でも全てが『チャレンジ』だと思っているので、僕としては監督もその1つだと捉えています。

―ということは、何が何でも指導者で生きていこうということでもない、と?

サッカースクールでの子供たちへの指導を通して、教える面白さは感じていたし、やりがいも感じているけど、正直、今はまだ自分に何が向いているのかはわかっていない状態です。しかも、大人の選手への指導は初めてですから。自分なりの全力で取り組んだ上で、仮に向いていないと思ったら…キッパリやめて失踪かな(笑)。

―Jリーグでプレーしていた18年までと、19年以降のキャリアは同じサッカー選手であっても、ご自身の中でサッカーに対する向き合い方は少し違ったのでしょうか。

そうですね。もちろん、戦うステージがどこであっても、全力でサッカーに向き合うとか、試合に出るためにしっかり準備をするということは同じでしたけど、仕事をしながら、となった時点でプロではなくなるわけですから。同じ選手といえども、心のどこかで感覚は少し違った気がします。二人の息子にも…仕事を並行してやり始めてからは説明が難しくなったので、サッカーのコーチだと伝えていました(笑)。そういう意味では、自分の中で選手であることから徐々にフェードアウトしてきて、引退に辿り着いた気もします。

―お子さんはいくつになられましたか?

8歳と5歳。サッカーもしています。今のところは。

―そういえば、ガンバ時代、長男くんが生まれた時には一切、誰にも報告せず「気がついたらフタさんの車にチャイルドシートが載っていた」とチームメイトが驚いていたのを覚えています。

あったな(笑)。と言っても、ガンバ時代は、長男もまだ物心がついていなかったので当時のことは全く記憶には残っていないらしい。今は、YouTubeで何でも観れてしまうので、ガンバでプレーしていたことは気づいているみたいですけど。一応、引退にあたって『サッカー、やめるわ』とは伝えたら『ふうん』とだけ返ってきました。最終戦は、嫁さんも含めて観に来るとは言っていましたけど、来なくていいと伝えてあります(笑)。

―そんな! 現役生活最後のプレーを見てもらいたいという思いは…。

ないない。YouTubeで十分。一番いい時の記憶だけ留めてもらえば(笑)。

―二川選手にとっての一番いい時とは、いつの時代を指しますか? 

やっぱりガンバは一番長く在籍したクラブだし、痺れる試合もたくさん戦えたので、いい思い出は多いけど…残念ながら、記憶が薄い(笑)。ただ、07年のナビスコカップ(現ルヴァンカップ)での優勝は一番嬉しかったタイトルとして覚えています。05年の同大会では決勝で敗れたという伏線があってのナビスコ初優勝だったし、国立競技場で、最後までピッチに立って優勝の瞬間を迎えられたのも嬉しかった。あと…個人的には翌年のハワイでのパンパシフィック選手権への出場権も大きなモチベーションになっていたので、それが実現できて良かった。

07年のナビスコカップ決勝では川崎フロンターレを1-0で下し、頂点に輝いた。写真提供/ガンバ大阪
07年のナビスコカップ決勝では川崎フロンターレを1-0で下し、頂点に輝いた。写真提供/ガンバ大阪

―確か初ハワイの記念にと、ハワイアンジュエリーを買っていらっしゃいましたよね。

普段はアクセサリーをつけないのに、陽気に誘われて、つい記念に買ってしまったパターンですね(笑)。せっかく買ったのにほとんどつけず、今ではどこにいったかすらわからない。

―記憶が薄いということですが、ガンバ時代で、印象に残っている『ゴール』は挙げられますか?

挙げられません。いつ、どの試合で決めてもゴールは嬉しかったし、特に拮抗した試合で勝ちにつながるようなゴールは喜びも大きかったですけど、1つには絞れないです。

―ちなみに、つい最近もJFLの鈴鹿ポイントゲッターズ戦でゴールを決められていました。流石にあのゴールは覚えていますよね?!

もちろん(笑)。憧れのカズさん(三浦知良)と同じ日に、JFL初ゴールを獲れたことは最高の思い出になりました。

■数々のタイトルに貢献したガンバ時代。『10』が感じた強さの秘訣。

―ガンバユースからトップチームに昇格したのが99年。プロ5年目にあたる03年からは日本人としては初めてガンバの『10』を背負われました。

西野朗監督に言われて『10』をつけることになったんですけど、それと同時にゴールを強く要求されるようになったことは、意識の変化につながった出来事として印象に残っています。もともとのプレースタイル的にそこまでゴールにはこだわりはなかったのに、西野さんの「自分の背番号くらいはゴールを獲れよ」という言葉に触発されて、リーグ戦での二桁ゴールを毎年の目標に掲げるようにもなりましたしね。結局、一度も実現できなかったですけど。

―『10』をプレッシャーに感じたことはありましたか?

ガンバでプレーしている時は、正直、あまり深く考えてなかったし、プレッシャーに感じることはなかったです。でも、ガンバを離れてから「元ガンバの10番」と紹介されることが増えて、その重みを感じたし、ありがたいことだったなと思うようになりました。

―05年のJリーグ初制覇に始まって、たくさんのタイトル獲得にも貢献されました。そこにはどんなチーム力があったのでしょうか。

僕自身は前線で、好きなようにプレーさせてもらっていただけでしたけど、そんなふうに自分が自由に、のびのびとプレーできていたのは、守備を担ってくれていた智さん(山口/湘南ベルマーレ監督)やミョウさん(明神智和/ガンバ大阪ユースコーチ)といった選手たちのおかげだったな、と。それは、ガンバを離れて、いろんなサッカーに触れたことで気づいたことでした。当時のサッカーはよく『攻撃サッカー』と表現されて、攻撃が注目されることが多かったですけど、智さんやミョウさんのように目立ちはしないけど、後ろでカバーしてくれたり、チーム全体をコントロールしてくれていた人たちがいたおかげで、攻撃サッカーが成立し、それがタイトルの歴史にもつながったんじゃないかと思っています。

アジア制覇を実現した08年のACLでも変幻自在のパスで攻撃を加速させた。写真提供/ガンバ大阪
アジア制覇を実現した08年のACLでも変幻自在のパスで攻撃を加速させた。写真提供/ガンバ大阪

―二川選手といえば、歴代のブラジル人選手に愛されたのも印象的です。

通訳がそう仕向けていただけだと思いますよ(笑)。でも、ブラジル人選手はとにかくゴールに対して貪欲でしたからね。外国籍選手に限らず、同期の大黒(将志/ガンバ大阪ユースコーチ)やバンさん(播戸竜二)もそうでしたけど、当時のFW陣はとにかく第一に裏を狙いまくっていたので、その意識と僕のプレースタイルが合っていた気はします。

―05年はアラウージョが、06年はマグノ・アウベスがJリーグ得点王になるなど、二川選手とのホットラインからたくさんのゴールが生まれました。パスの『出し手』として印象に残るFWを教えてください。

みんなすごかったけど…やっぱりマグノ・アウベスはFWとしての能力がトータル的に高く、必然的に点を獲れているなと感じることが多かったので印象に残っています。性格はちょっと怖かったから、ほとんど喋った記憶はないけど(笑)。そのマグノに比べたらアラウージョは、僕の中ではなんであんなに点が獲れたのかはっきりわからないまま去ってしまいましたね。彼と大黒、フェルナンジーニョの3人で攻撃を完結できていて、自分がプレーに絡む回数が少なかったから気づけなかっただけかもしれないけど。あの決定力(33得点)の理由を知りたかったな。

―そういえば、05年の二川選手は…。

ゼロです!

―意外だったので逆に印象に残っています。

いやいや、そんなもんです。このシーズンだけじゃなく、J2リーグに降格した12年も結構、大事な試合で獲り切れなかった気も…。そういうところをちゃんと獲れていたら『二桁』に乗せられていたシーズンもあったはずですけど…ま、その程度の選手だったということでしょう! ゴールを外したら、次は絶対に決めてやると思って…一応僕なりにそういうリマインドをして練習に臨んでいましたけど、正直、大した変化も、成長もなかった(笑)。

■ガンバを離れ、J2リーグ、関西サッカーリーグ、JFLに戦いの場を移す。

―16年夏に東京ヴェルディに期限付き移籍をされました。ガンバを離れる時には「新しいチームに馴染めるのか心配」とおっしゃっていましたが、どんな時間を過ごされたのでしょうか。

16年はガンバU-23で過ごすことが増えていた中で、オーバーエイジ枠でJ3リーグを戦っている事実と、タイトルを意識しながら痺れる試合を戦いたいという思いを自分の中でうまくリンクさせられず、ガンバを離れる決断をしましたけど、新しい環境でのプレーは何かと新鮮でした。意外と…僕としては馴染めていたんじゃないかとも思っています(笑)。サッカーのスタイルは『西野ガンバ』と大きく変わらなかったけど、才能豊かな若い選手と…渡辺皓太や畠中槙之輔(ともに横浜F・マリノス)、安西幸輝(鹿島アントラーズ)、井上潮音(ヴィッセル神戸)、高木善朗(アルビレックス新潟)、高木大輔(レノファ山口)ら、今も第一線で活躍している彼らとプレーできたのは楽しかったですしね。ただ、チームとしてはなかなか結果が出なかったし、自分自身もケガをしてしまったこともあってコンスタントには活躍できなかったな、と。また、ロティーナ監督が就任されてからは、ほとんどメンバーには入れなかったですが、僕にとっては初めて触れるスペインサッカーで、ポジションニングやボールの動かし方などがすごく新鮮で、学ぶことが多かったのも印象に残っています。あと、純粋に東京生活が楽しかった!

―さらに、18年3月には栃木SCに移籍されました。ガンバユースの同期、大黒選手とのコンビ復活も注目を集めました。

僕も大黒と久しぶりに同じチームでプレーできるのを楽しみにしていたんですが、最初の試合でケガをしてしまったのはもったいなかったなと。僕が抜けている間にチームもある程度の結果を残せていたので、なかなかメンバーに割って入れなかったですしね。戦い方としては守備に重きを置いたスタイルだったので、僕が入ったとしても難しさは感じながらプレーしていた気はしますけど、ほとんど試合に絡めずに終わったのは残念でした。でも、栃木生活も楽しかったです。

ーFCティアモでは初めて仕事とサッカー選手を兼任しながら現役を続けられました。加入した時は関西リーグ1部に所属するチームでしたが、Jリーグとは違うステージでの戦いにはどんなことを感じていたのでしょうか。

当然ながら環境は違いましたけど、サッカーをやることに変わりはないので。個人的には野沢拓也や田中英雄ら元Jリーガーと、Jリーグとはまた違うサッカーができそうだなってことに魅力を感じて加入し、実際、楽しくサッカーをできました。また、仕事をしながら…セカンドキャリアも視野に入れながらプレーできたのも、セカンドキャリアでやりたいことが見つかっていなかった僕にとっては良かったなと思います。スクール事業のところでは、ガンバ大阪スーパーエリート交野クラスで小学生4〜6年生の子供たちに指導をするのも楽しかったし、おにぎり専門店nanaで週1回、飲食業に携わったのもいい経験でした。ほとんどの選手がそうだと思いますけど、サッカー選手しかやってこなかっただけに、いざ次の仕事を、と言われたところで自分に何が適しているのか、わからないですから。そういう意味ではサッカーをしながらいろんなことに携われてよかったです。

現役最後のチーム、FCティアモ枚方でも10番を背負い、4シーズンにわたってプレー。写真提供/FC TIAMO
現役最後のチーム、FCティアモ枚方でも10番を背負い、4シーズンにわたってプレー。写真提供/FC TIAMO

―nanaでは接客もされていたそうですが…あまりイメージが湧きません(笑)。

意外と楽しかったですよ! お客さんが来てくれたら、素直に嬉しかったし、ありがたかったし、おにぎりを握るのも…握るというか、おにぎり型にごはんをいれて作るんですけど、長くやっていたらコツがわかってきて、最後はおにぎりをフワッとさせるのが上手くなった(笑)。洗い物ができるようになり、家でも少し洗い物を手伝うようになるという生活の変化も生まれました。結果的に、引退後の最初の仕事は監督業から始めることになりましたけど、経験っていつどこで活きるかわからないと考えても、自分が携わったどの仕事も僕の人生には無駄ではなかったと思っています。

―現役生活に「これをしたかった」という心残りはないですか?

子供の頃から漠然とながらワールドカップに出場したいと思っていたので、それが叶えられなかったのは心残りというか…自分の力不足だったなと思っています。実際、06年に日本代表には選ばれましたけど、いざ代表に放り込まれた時に、自分が試合で活躍できるイメージは全く湧いてこなかったですから。プレーのレベルもそうだし、マインドも含めて、活躍してやるという感情にならなかった。それはすなわち、僕の努力や思いが足りなかったということだし、自分の実力がその程度だったと受け止めているので、心残りとか後悔とは少し違いますけど。

―では、24年の現役生活に悔いはないですか。

ない。大満足。僕には十分すぎる現役生活でした。サッカーをやり尽くした幸せな毎日で、後悔もありません。小学校、中学校の時に所属した高槻FCではサッカーの基本を叩き込んでもらい、ガンバユースに加入してからは、戦術を含めてサッカーの本質を学び、『前を向いてプレーする』意識を植え付けてもらって、プロサッカー選手にもなれた。そこから24年間もサッカーを楽しみながら、国内外のいろんな大会、ステージを戦い、たくさんのタイトルも獲得できましたからね。これ以上、望むものはないです。支えてくれた家族をはじめ、僕に関わってくれた全ての人に感謝しています。

―最後にファン・サポーターの皆さんにはどんな言葉を届けますか。

ありきたりですけど、長い間、応援してもらってありがとうございました。またどこかで僕を見かけたら…できれば遠くから温かく見守るだけで、そっとしておいてください(笑)。

■「ファンタジフタであり続けることで、自分らしいサッカーを貫けた」。

 インタビューに応じてくれた1時間では、何度も話が脱線し、冗談とも本気とも取れない言葉ではぐらかされそうになりながらも、最終的には真摯に、彼らしい言葉を聞かせてくれた二川。それも、ある意味、ガンバに在籍していた時代のままであることをどこか嬉しく感じながら、最後の質問をぶつけてみる。

 圧倒的な技術と創造性溢れるプレーで攻撃を彩る姿に、いつしか『ファンタジスタ』になぞらえて『ファンタジフタ』と呼ばれた愛称を、彼自身はどう受け止めていたのか。

「そんなふうに見てもらっているのは嬉しかったけど、プレッシャーでもありました。どこにいっても、そういうプレーを魅せ続けなきゃいけないというか…でもそのおかげで、自分らしいサッカーを貫けたし、楽しめたところもあったかもしれない」

 さらに、もう一つ。珍しく「そういえば」と自ら切り出した。

「パナソニックスタジアム吹田が完成した16年はヴェルディに期限付き移籍をするまで、ほとんどの時間をガンバU-23で過ごしたので。J3リーグの試合では何度かパナスタでプレーしましたけど、満員のパナスタで僕もプレーしてみたかったなっていうのはありました。万博記念競技場もアカデミー時代も含めていろんな思い出が詰まったスタジアムですけど…それはちょっと心残りかな」

 それなら、いつか監督としてパナスタに…と尋ねようとしたら、遮るように、言葉を被せられた。

「いやいや、今の僕にはまだそんなことを考えられる余裕があるわけないでしょ! それに、そこはほら…僕よりヤットさん(遠藤保仁/ジュビロ磐田)の方が喜ばれる気がする」

 最後まで『二川節』を炸裂させて、たくさんのファンを魅了し、サッカーの面白さをプレーで表現し続けた稀代の『ファンタジフタ』は、そうして笑顔でスパイクを脱いだ。その姿は、サッカーを楽しみ尽くした彼にとても相応しいエンディングである気がした。

写真提供/ガンバ大阪
写真提供/ガンバ大阪

フリーランス・スポーツライター

雑誌社勤務を経て、98年よりフリーライターに。現在は、関西サッカー界を中心に活動する。ガンバ大阪やヴィッセル神戸の取材がメイン。著書『ガンバ大阪30年のものがたり』。

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