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超日本人キラーのスーチョルを圧巻TKO!RIZIN新王者・井上直樹が試合直前の控え室で見せた“異変”

藤村幸代フリーライター
チョークからパンチに選択を切り替え豪快フィニッシュ!(C)RIZIN FF

 9月29日、さいたまスーパーアリーナで開催された格闘技イベント『RIZIN.48』では、全11試合中、実に7試合がKO、TKO、タップアウトによる1ラウンド決着。スピーディーな展開に技術や人間ドラマが凝縮されたという意味で屈指の大会となった。

 初回決着のなかでも特に大きなインパクトを残したのが、朝倉海のUFC移籍に伴い返上されたベルトを巡るRIZINバンタム級(61.0Kg以下)タイトルマッチだ。日本人最年少の19歳でUFCと契約するなど、早くからその素質を評価されてきた井上直樹(27/Kill Cliff FC)と、“日本人キラー”の異名を取る韓国人ファイター、キム・スーチョル(32/ROAD GYM WONJU MMA)によるセミファイナルマッチは、嵐のような猛攻を得意とするスーチョルを井上が封殺。最後は相手の闘争本能を根こそぎ奪うパンチの連打で3分55秒、レフェリーストップを呼び込んだ。

「接戦、もしくはスーチョル有利」の下馬評を覆す圧勝劇はなぜ生まれたか。背景の一端を探りに、井上が練習拠点とする横浜市港南区の格闘技ジム「SONIC SQUAD(ソニックスクワッド)」を訪ね、セコンドについた安田けん、そして井上本人に話を聞いた。

ベルトを巻き勝利ポーズの井上。後方で見守るのは左より永末“ニック”貴之トレーナー、安田けん、水垣偉弥のセコンド陣。(C)RIZIN FF
ベルトを巻き勝利ポーズの井上。後方で見守るのは左より永末“ニック”貴之トレーナー、安田けん、水垣偉弥のセコンド陣。(C)RIZIN FF

 井上のセコンドはUFCやRIZINで活躍した水垣偉弥(たけや)、多数の格闘家やオリンピアンへのトレーニング指導経験を持つ永末“ニック”貴之トレーナー、そして安田の3人でここ数年定着している。格闘家として長いキャリアを持つ安田は、一方でUFCを含め水垣の国内外全試合に帯同するなど、セコンドとしての経験も豊富だ。

 その安田が井上の“異変”を感じたのは大会当日、予想以上にスピーディーな進行をモニターで確認しつつ、控え室でウォーミングアップのために最後のミット打ちを始めた時だった。「あれ? 全然…調子いいぞ」

 心身の不調や怪我が皆無の状態で試合当日を迎える選手は、ほとんどいない。今回の井上も、傷んでいる箇所がないではなかった。その傷みがリング上での井上の動きにどんな影響を与えるか、少しの心配を抱えて当日を迎えた安田だったが、その心配を一気に吹き飛ばすほど、ミットから伝わるパンチのスピード、威力はこれまでにないほど快調そのものだった。

 自身の肉体の好調を、実は井上本人も体感として承知していた。

「試合2日前の金曜日はRIZINで撮影があったんですけど、ジムに戻って夕方ごろから水抜きのためのミット打ちをやったら、汗もすごくかけたし調子よく動くことができたんです」

自身でも心身の調子の良さを実感しつつリングイン。(C)RIZIN FF
自身でも心身の調子の良さを実感しつつリングイン。(C)RIZIN FF

 好調の背景を尋ねると、井上は即座に「いつもより休みが多かったから?」と安田に同意を求めた。「今回はそれが一番だったよね」とうなづいた安田が言葉をつないだ。

「試合前の最後の2週間というのは一番疲労が溜まるし、身体のいろいろな箇所に痛みが出てくる時期ですよね。そのタイミングで、今回はだいぶ休んだんですよ。これまでは、日曜日が試合ならその週の火曜日くらいまでスパー(実戦形式のスパーリング)をやっちゃっていたんですけどね」

 井上の練習熱心さはつとに知られている。現在はソニックスクワッドで自分より階級の重いプロファイターらとの実戦練習を週2回のほか、水垣のジム「BELVA(ヴェルバ)での水垣とのマンツーマン練習を週2回、同じ横浜市内の格闘技ジム「GOAT」での技術練習を週1回、そしてニックトレーナーのもとでの週2回のフィジカルトレーニングをルーティンとする。今回はこれにボンサイ柔術への出稽古なども加えて全局面でのレベルアップを図った。

「とにかく隙あらば『やる』って言い出しちゃうから、いつも止めるのに必死なんです」と安田は苦笑する。「あれをやれ、これをやれ」ではなく「何もやるな」がセコンド全員の総意。井上も受け入れないわけにはいかなかった。

「安田さん、水垣さんからはいつも言われてきましたし、今回はニックさんも『タイトルマッチとなるとけっこう気合いを入れて練習を頑張っちゃうけど、そこであんまり頑張りすぎないほうがいいよね』と。ただ、自分としてはベルトがかかっているからというわけではなくて、今回は相手がスーチョル選手という強い選手だからこそ、練習にも力が入っていました。それを、最後はあえてミットで(タイミングを)合わせる練習くらいに抑えたので、正直不安もあったんですけど、結果的にいつもより調子がよくて、試合でもやりたいことをかなり出すことができました」(井上)

 下馬評での「スーチョル有利」の根拠として、すでにONEとROAD FCで王座を獲得している実績や「対日本人10勝無敗」という説得力のある記録はもちろんだが、扇久保博正、フアン・アーチュレッタというバンタム級の雄2人との対戦から実力を図る意見も多かった。

 スーチョルは扇久保に競り勝ち、アーチュレッタに判定1-2で惜敗しているが、どちらも驚異的なスタミナと極限での粘り強さを証明するに十分だった。一方、井上は扇久保戦、アーチュレッタ戦とも好勝負ながら競り負けており「長引くほど不利」の印象が強い。

 この下馬評に対し「素直に驚いた」というのが、井上をそばで見続けてきた安田だ。

「もちろんスーチョル選手はすごく強いですけど、僕は怪我さえなければ2ラウンドまでには終わるだろうな、少なくとも判定までは行かないだろうなと思っていましたから。漬けられてしまったら、井上のスタミナが持たないのではないかという意見も多かったけど、うちのジムでやっているときの井上直樹って、一言でいえばバケモノ。扇久保戦での削られていくイメージがあると思うけど、僕らからするとあのときのほうが、むしろ意外でしたから」

「顎元へジャブやバックステップなど出そうと思っていた動きをかなり出せた」と井上(C)RIZIN FF
「顎元へジャブやバックステップなど出そうと思っていた動きをかなり出せた」と井上(C)RIZIN FF

 思い返せば、2021年大晦日の扇久保戦では、試合1ヵ月前の練習で肋骨を損傷、また試合中も1ラウンド目に鼻骨骨折、2ラウンド目に左手薬指の脱臼に見舞われ、手負いの状態で3ラウンドを戦った。また23年5月のアーチュレッタ戦でも練習中に膝を負傷し、万全な状態でリングに上がることができなかった。対して、今回は本人もセコンドも納得のコンディションで臨む一戦。ゴングが鳴ると、安田が抱いていた勝利の確信は、さらに揺るぎないものになった。

「試合ではジャブがよく出ていましたよね。井上のあのジャブが当たり出すと、相手は後手に回らざるを得ないんです。だから、リングサイドで『これはもう大丈夫かな』と。ミットを受けていても感じることだけど、試合中に改めて感心しちゃう場面もありましたね。相手を反り返らせるようなパンチの威力や、狙ったところに確実に当てる精度…やっぱり井上直樹の打撃は凄いなあと(笑)。

 身内だから持ち上げるわけでは全然なく、彼に一番足りないものは『休む勇気』だけ。その勇気さえ持てれば、不安要素はひとつもないと言っていいくらいじゃないかな」

勝利マイクで大晦日参戦をアピールした井上。「調子がいい時に強い相手とどんどん試合をして、もっと強くなっていきたい」。自分が強くなることにのみ貪欲な27歳(C)RIZIN FF
勝利マイクで大晦日参戦をアピールした井上。「調子がいい時に強い相手とどんどん試合をして、もっと強くなっていきたい」。自分が強くなることにのみ貪欲な27歳(C)RIZIN FF

 2015年に開幕したRIZINは、那須川天心のボクシング転向や、山本美憂、浅倉カンナのMMA引退、熱狂を生んだ平本蓮との一戦を終えた朝倉未来の引退宣言、そして朝倉海のUFC移籍などのビッグニュースを飲み込みながら、この年末で10年目を迎える今、新たなリングの主役を求めている。もちろん、新王者の井上がその候補の筆頭であることは間違いなく、井上自身も「勝っていけばそこ(RIZINエースの座)に繋がるのだと思う」と自覚する。

「でも、それにはまず自分が強くなること、勝ち続けることが大事で、勝たないと意味がないと思います。日本で一番大きい団体はRIZINですし、世界にも強い選手はたくさんいる。RIZINを盛り上げていけば、海外から強い選手が乗り込んでくるだろうし、自分が頑張れば頑張るほど、その状況に繋がっていくんじゃないかなと思っています」

 おりしも、朝倉海のUFCデビュー戦が現王者、アレシャンドレ・パントージャとのUFC世界フライ級タイトルマッチとなることが発表された。決戦の日は日本時間の12月8日。大晦日のRIZIN参戦を熱望する井上は、実現すれば朝倉海の戦いにおおいに刺激を受けながらのRIZINバンタム級王者初戦となるだろう。堀口恭司、マネル・ケイプ、朝倉海、そしてフアン・アーチュレッタ――。名だたる歴代王者たちが未だ果たしていない「王座防衛」の壁をまずは乗り越えるべく、井上直樹の新章が始まる。

井上直樹(右)とセコンド・参謀役の安田けん。井上が練習拠点とする横浜市港南区のSONIC SQUAD(ソニックスクワッド)にて。(C)SHIGERU FUKUDA
井上直樹(右)とセコンド・参謀役の安田けん。井上が練習拠点とする横浜市港南区のSONIC SQUAD(ソニックスクワッド)にて。(C)SHIGERU FUKUDA

フリーライター

神奈川ニュース映画協会、サムライTV、映像制作会社でディレクターを務め、2002年よりフリーライターに。格闘技、スポーツ、フィットネス、生き方などを取材・執筆。【著書】『ママダス!闘う娘と語る母』(情報センター出版局)、【構成】『私は居場所を見つけたい~ファイティングウーマン ライカの挑戦~』(新潮社)『負けないで!』(創出版)『走れ!助産師ボクサー』(NTT出版)『Smile!田中理恵自伝』『光と影 誰も知らない本当の武尊』『下剋上トレーナー』(以上、ベースボール・マガジン社)『へやトレ』(主婦の友社)他。横須賀市出身、三浦市在住。

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