【九州三国志】高橋鑑種、忠義と反逆のはざまで!武勇の名将、その波乱の生涯
豊後国の大友氏庶流に生まれた高橋鑑種(たかはし あきたね)は、一萬田親泰の次男として誕生し、最初は一萬田親宗と名乗っていました。
やがて、筑後高橋氏を継承することで高橋鑑種と改名し、主君・大友義鑑やその子義鎮(宗麟)に仕えました。
その武勇は名高く、弘治2年(1556年)には小原鑑元の反乱を鎮圧し、続く秋月文種討伐や西園寺氏攻めなど数々の戦功を挙げます。
これにより、九州の要衝である宝満城督を任され、筑前国の支配を担う重要な役目を果たしました。
しかし、忠義を尽くしていた鑑種の人生は、義鎮との間に生じた亀裂により一変します。
兄・一萬田鑑相が義鎮によって殺され、さらに兄の妻を義鎮が愛妾としたことが鑑種の心に深い影を落としました。
これに追い打ちをかけたのが、義鎮から命じられた外交調略が無に帰したことで、鑑種は徐々に不満を募らせていきます。
永禄5年(1562年)、ついに鑑種は毛利氏に寝返ります。
毛利元就の支援を受けた鑑種は、宗像氏貞や秋月種実、さらには毛利方の豪族たちと手を組み、大友家に対する謀反を企てました。
これに対して義鎮は戸次鑑連(後の立花道雪)を主将とする討伐軍を派遣し、長きにわたる抗争が続きます。
最終的に鑑種は毛利軍の撤退により進退窮まり、降伏を余儀なくされました。
高橋家の家督を剥奪された鑑種は小倉城主となり、以後は政治的な影響力を失います。
天正6年(1578年)、耳川の戦いで大友家が衰退すると、鑑種は再び独自の道を歩みます。
秋月氏より養子・元種を迎え、香春岳城や長野氏の再興に力を注ぎましたが、天正7年(1579年)4月、病に倒れ、小倉城にて没しました。
その波乱に満ちた生涯は、主君への忠誠と個人の名誉の間で揺れ動きながら、九州の戦国史に鮮烈な印象を刻みました。