轟悠が宝塚退団 「当たり前のような存在が突然失われる」衝撃が意味するもの
3月17日、宝塚歌劇団専科・轟悠の突然の退団が発表された。このニュースが劇団公式サイトで公表されるとたちまちTwitterの「日本のトレンド」にもなるほどの衝撃を与えた。それはいったい何故なのだろう?
長年「男役の顔」としてタカラヅカを支えてきた轟悠のこれまでの歩みやその魅力を振り返り、このたびの決断の意味するものについても考えてみたいと思う。
◆雪組トップスターから専科へ、異例の歩み
熊本県人吉市出身の轟悠は1983年、宝塚音楽学校を受験して一発で合格した。多くのタカラジェンヌが受験スクールなどで周到な準備をしてから受験に臨む中、ごく稀に地方から大した準備もしないまま宝塚音楽学校に入学してしまう人がいる。轟もそんな一人だった。
1985年、71期生として初舞台を踏む。この期は花組の愛華みれ、月組の真琴つばさ、雪組の轟悠、そして星組の稔幸と、4組のトップスターを輩出した注目の期となった。
入団後は月組に配属されたが、研究科(=入団)4年目に雪組に組替え。その後は1989年『ベルサイユのばら-アンドレとオスカル編-』のアンドレ役で新人公演初主演(研5)、1992年『恋人たちの神話』にてバウホール公演初主演(研8)と順調にスター街道を歩む。ちなみに、バウホール初主演作の『恋人たちの神話』は、冴えないサラリーマンが新興宗教の教祖になってしまうという筋立てだった。
1996年『エリザベート』初演におけるルキーニ役は今なお語り継がれる伝説だろう。そして1997年、入団13年目で雪組トップスターに就任した。
タカラジェンヌの歩みを双六にたとえるなら「トップスター」あるいは「トップ娘役」は「上がり」である。したがって、その後に見えるのは「退団」であり、「サヨナラ公演」で華々しくタカラヅカを去っていくのが通例だ。
しかし、轟悠はお約束のコースを歩まなかった。雪組でトップスターを5年ほど務めた後、2002年に「専科」に移動したのである。翌2003年には劇団の理事にも就任した。
◆男役スター轟悠、その魅力とは?
男っぽく色濃い役が似合うと思われがちな人である。事実、轟悠と聞いて思い浮かぶ役は?と聞かれれば、一般的には『エリザベート』のルキーニや『風と共に去りぬ』のレット・バトラー役を挙げる人が多いだろう。レット・バトラーに関していえば、トップ就任前の1994年に役替わりで演じたのを皮切りに、5回も演じている。
だが、単に「濃い」だけではない。ギリシャ彫刻のような端正な顔立ち、そこにストイックで深く繊細な味わいが加わるのが轟が見せる男役の魅力ではないかと思う。
だからこそ「夢の世界」タカラヅカにおいてリアリティのある男性像を絶妙なバランス感覚で作り上げることができるのだ。轟悠は夢の世界の「王子さま」ではなかった、どこまでも「男」だった。
実際、『JFK』 (1995年)のキング牧師、『猛き黄金の国』(2001年) の岩崎彌太郎、『黎明の風』(2008年)の白洲次郎、『For the people』(2016年)のリンカーン、そして『チェ・ゲバラ』(2019年)と、歴史上の人物、しかも現代に近い時代に活躍し、まだ生々しさの残る人物をこれほど多く演じたスターもいない。
さらに、この持ち味は専科時代にも活かされた。「王子さま」の枠に収まりきらない轟だったからこそ、従来のタカラヅカのイメージを打ち破る数々の挑戦ができたのだと思う。
雪組トップスター時代の集大成であり、文化庁芸術祭賞演劇部門優秀賞を受賞した『凱旋門』(2000年)のラヴィックはまさにそんな轟悠の魅力が凝縮した役どころといえるだろう。
逆に、トップコンビ演じる恋人たちが死んだ後、天国に昇ってスモークの中で夢々しく踊るという結末が似合わない。現に雪組トップ時代の作品でそうした結末を迎えるものは一作もない。ハッピーエンドも現世で、それもとことんハッピーな方が似合うのだ。『再会』(1999年)は相手役の月影瞳との息のあう掛け合いも楽しかった忘れがたいコメディである。
そしてもう一つ、轟悠といえば「日本物」である。もともと日本舞踊を得意とし、さらに「日本物の雪組」で育ってその伝統に磨きをかけた。ダンディなスーツ姿とともに、凛とした若衆姿が似合う男役だった。
専科に異動してからも、90周年や100周年といった節目の年の記念公演において祝舞を踊るという重要な役割も担ってきた。また、2014年の「日本舞踊×オーケストラVol.2」という催しにおいて轟悠が中心になって踊った『いざやかぶかん』はタカラヅカの日本物ショーの魅力を示した意義あるステージであったと思う。
◆「専科」で期待された役割
「専科」とは花・月・雪・星・宙の5組とはまた別にある遊軍的な組織だ。所属メンバーの多くは芸達者なベテランたちで、必要に応じて各組の公演に出演し、重要な脇役を演じることが多い。
だが、専科に移動した轟悠は別格で、各組への特別出演においても常に主役を演じ続けた。移動後数年は、大劇場公演に特別出演。これには組のトップスターに学びの機会を与えるという狙いもあったようだ。
また、宝塚大劇場以外の様々な劇場でも、多彩な作品に主演した。ニール・サイモンのコメディに挑戦した『おかしな二人』(2011年)や『第二章』(2013年)、ギリシャ神話の『オイディプス王』(2015年)、そしてつけ鼻で挑んだ『シラノ・ド・ベルジュラック』(2020年)など、タカラヅカとしての新境地も次々と開いてきた。
専科の轟悠に期待されたこと、それは、タカラヅカの象徴である「男役」の頂点として、後輩たちの手本として存在し続けることであった。
かつて、その役割を担ってきたのが春日野八千代である。「白薔薇のプリンス」と呼ばれ戦前から戦後のタカラヅカを支えた春日野は2012年の逝去まで、その生涯をタカラヅカに捧げた。轟悠には、その春日野の後継者としての役割が期待されており、専科に移動後の轟は「タカラヅカの男役の顔」であったと思う。
したがって、ファンも劇団内の後輩たちも、誰もが「轟さんはずっとタカラヅカにいる」ことが当たり前のように思ってきた。
その轟が退団するという。当たり前のような存在が突然失われる。だから衝撃なのである。
◆「退団」を決意させたものは何だったのか?
3月18日に行われた退団発表の記者会見の場に、黒のスーツ姿で現れた轟はとても穏やかな表情だった。退団を決意したのは昨年の9月末から10月ごろ、「退団の時がやってきたことに自分の心が気付いた。その心に素直に従おうと思った」のだという。そして「専科に残る選択をして正解だった。おかげで、これほど多くの作品や役に出会うことができた」と語った。
だが、専科時代の20年、ほぼ前人未到といっていい険しい山を登り続けるのはどれほど大変だったことだろう。「春日野八千代の後継者に」といわれても、時代も違うしタカラヅカ自体も大きく変わってきている。
現在のタカラヅカにおいては組のトップスターこそが「頂点」だ。この頂点以外の別の「頂点」を作ることも、ひとたび頂点を極めた者が自ら坂を下りサポートに回ることも、強固に確立した現在のスターシステムの元ではどちらも難しいことなのかもしれない。
筆者個人としては、父親役や敵役などでトップスターとがっぷり四つに組むお芝居や、外の舞台での他ジャンルの俳優との共演なども、まだまだ観てみたかったとも思う。だが、轟としては自分にできることはやり切ったという心持ちなのだろう。今はただただ、おつかれさまでしたと伝えたい。
日舞の名手であった松本悠里に続く轟悠の退団、これは大きな喪失だ。
轟に代わる「男役の顔」としての存在はこれからも必要なのだろうか? だとしたら、それはどのようなキャリアや志向の持ち主がふさわしいのだろうか? これは、今後の劇団に残された課題となるだろう。
そして何より今は、タカラヅカの男役・轟悠に残された時間が悔いのない幸せなものとなることを願ってやまない。