麻薬密売人で何度も塀の中に落ちたホームレスのパトリックがロンドンで一番幸せなバス運転手になるまで
職場は名物・赤い2階建てバス
[ロンドン発]国際都市ロンドン名物の赤い2階建てバス「ダブルデッカー」の運転手パトリック・ローソンさん(50)は昨年、ロンドン交通局の「ハロー・バス賞」に選ばれ、トップ・ロンドン・バス運転手の最終選考まで残りました。
喜ぶべきなのに、なかなか他の人には言えませんでした。10代でホームレスになり、悪い仲間に誘われてキングス・クロス駅周辺で麻薬密売人として働き始め、何度も刑務所に入った過去があるからです。
現場にいただけなのに2度も重罪に問われかけたことがあるそうです。自ら進んでそんな過去を打ち明ける気にはなれませんでした。
しかし、バス運転手として復帰できるきっかけをつくってくれたホームレス支援団体SHP(Single Homeless Project)に「他のホームレスの人たちの励みになるから」と協力を求められ、先月中旬になって、初めて自分の半生を正直に語り出しました。
これが地元紙に取り上げられ、新年になって英BBC放送だけでなく、米メディアからも取材が殺到。筆者も、ボランティアでパトリックさんにいろいろアドバイスをして支援している元外交官の浜口理枝さんから連絡をもらい、8、9日の2日間パトリックさんに密着しました。
パトリックさんはイースト・ロンドンの下町ハックニー・ウィックとウォータールー駅を往復する「ルート26」のバス運転手になって2年が経ちました。
アシュ・グローブ車庫の職場に出勤したパトリックさんは運転手や仲間に「おはよう、調子はどう」「元気にやっている」と次々と声をかけていきます。
陽が短くなるこの時期、ロンドンで暮らす人は一様に暗い表情をしています。しかしパトリックさんが通ったあとは笑い声が絶えません。取材していて、一日中パソコンやスマートフォンにしがみついて口数が少なくなりがちな自分自身を反省しました。
「大型バスを運転するのは意外と簡単だよ」
「ロンドンの道は狭いので、大きなバスを運転するのは難しくない?」と尋ねると、パトリックさんは「普通の乗用車と違ってボンネットがないので意外と簡単だよ」と教えてくれました。
しかし、パトリックさんの底抜けの笑顔〈光〉には、恵まれなかった過去〈影〉が隠されていました。
パトリックさんの両親は1960年代後半、ナイジェリアから英国に移住してきました。父親はアルコール中毒で仕事もせず、暴力を振るって母親がミシンの縫製で稼いだお金を取り上げては飲み代に使っていました。
我慢できなくなった母親はパトリックさんと弟を連れて父親と離婚しました。再婚してもう2人の子供をもうけた母親はナイジェリアの兄のところに11歳になったパトリックさんと10歳の弟を飛行機で送り返します。
この伯父(おじ)はパトリックさんに洗車をさせ、背が届かないため洗い残した箇所を見つけると、裸にさせて容赦なく杖でぶちました。
「今でも傷跡が残っているよ。何も悪いことはしていないのに、どうして叩かれるのか。怒りがこみ上げてきて、ある日、この男を殺してやると思いました。幸いなことにそうはしなくて済んだんですが」と振り返ります。
3年半後、金持ちだった伯父はガソリンスタンドで強盗にショットガンで撃たれて死にます。伯父の葬式のためナイジェリアにやって来た母親にパトリックさんと弟は「僕たちも一緒に英国に連れて帰って」としがみつきました。
しかしロンドンに戻ってからの生活も決して平坦ではありませんでした。
中学校ではジャマイカ系の同級生にアフリカ訛りの英語を馬鹿にされ、みんなからいじめられます。自分を守るためには、戦うしかありませんでした。親分格のいじめっ子に目をつけられたパトリックさんはノコギリと瓶を持って反撃し、放校処分になります。
「光のないトンネルの中」
母親はパトリックさんに継父を「ダディ(パパ)」と呼びなさいと何度も言いましたが、それに応じなかったパトリックさんは弟と一緒に家を放り出され、文字通りの「家なき子」になってしまいます。ホームレス生活が始まったのは16歳の時でした。
パトリックさんは怒りを上手く抑えることができませんでした。そのため、暴力事件を起こし、刑務所に入ります。そこでさらに悪い仲間と知り合い、路上と刑務所の間を行ったり来たりするようになります。できることは「犯罪」だけでした。
悪い仲間に誘われ、麻薬密売人と売春婦の巣窟だったキングス・クロス駅周辺で麻薬を売り始め、自分でも常習するようになります。「その時は悪の犯罪社会が大きいものだと思い込んでいましたが、実際はとても小さな社会だったのです」
ある「ドラッグ・デン(昔の阿片窟のような隠れ家)」でパトリックさんは4時間人質になり、ネズミのように殴られ続けます。命からがら逃げ出したパトリックさんは病院に駆け込み、すべてを懺悔(ざんげ)します。
2010年からチャリティー団体で薬物依存症の治療を受けるようになります。
「随分長く光のないトンネルの中をさまよっていました。しかし簡単には抜け出せません。立ち直れる人はとても少ないのです。薬物常習者は、悪いのは自分に十分してくれなかった政府だ、システムだ、刑務官だと責任を他になすりつけてしまうのです」
「あと一歩前に進もう」
母親は2年前に亡くなり、パトリックさんは「自分より自分のことを信じてくれる」SHPのサポートワーカー、アマンダさんに出会います。パトリックさんは2000年から3年間、民間会社でバスの運転手をしていましたが、トラブルを起こして止めていました。
アマンダさんは「私に任せておいて」と言って、「社会起業」としてバスを運行しているチャリティー企業HCTへのバス運転手としての就職を取り付けてきます。パトリックさんは光のないトンネルの中に逆戻りするのは懲り懲りでした。
読んだ啓蒙書の中にあった「あと一歩前に進もう(Going the extra mile)」という一節を自分なりに実践してみようとじっくり考えてみたのです。その時、一筋の光明が差し込みました。「とにかく、一人ひとりの乗客に感謝の気持ちを込め話しかけてみよう。笑顔で話そう」
パトリックさんはルート26の停留所で停車するたび、乗り込んでくる乗客一人ひとりに「おはよう。調子はどう」と気さくに話しかけます。バスの運転手は無愛想と相場が決まっているので、みんな驚いたような顔をします。恐る恐る「おはよう」と返してくれる乗客もいました。
発車してしばらくすると、バスの行き先や最新の情報をパトリックさん自らが丁寧にアナウンスします。たった、それだけでバスの中は、春が訪れたように温かくなるのです。
乗客も降車する時には「チアーズ(どうも、ありがとう)」と感謝の言葉をかけるようになりました。ロンドン交通局に届けられたパトリックさんへの感謝の声は66件に達しました。これはアシュ・グローブ車庫で働く残りの運転手に届けられた感謝の声を足したよりも多いのです。
パトリックさんは人生の師匠役の浜口さんの時には厳しい人生指導にも「はい、わかりました」と素直に答えます。
ホームレスの人たちに「働く場」をつくる雑誌「ビッグイシュー」を売っていたこともあるパトリックさんは「コベントガーデンでトラ猫ボブと一緒にギターの流しをやっていたホームレス仲間のジェームズは、僕が売れなくて困っているといつもビッグイシューの売り上げを回してくれた」と懐かしそうに笑います。
捨て猫ボブとの出会いや生活、薬物依存症治療の難しさを書いた本がベストセラーになり、映画にもなったジェームズ・ボウエンさんは今ではいくつかのチャリティー団体を支援しています。
パトリックさんは「あなたの家まで送っていくことはできないけれど、これはあなたのバスですと乗客一人ひとりに話しかけています。僕は辛いことを顔に出したくない性分なんです。負けたような気がするから。だから笑顔で話しかけるのです」と笑いました。
「ロンドンで一番幸せなバス運転手」のパトリックさんは今日も幸せを振りまきながらルート26を走ります。
(おわり)