ファミコン 誕生から37年も“現役” ブランド健在の理由
任天堂の家庭用ゲーム機「ファミリーコンピュータ」が1983年に発売され、7月15日に“37歳の誕生日”を迎えます。中古ゲーム店でもいまだにソフトが取り引きされており、ファミコンソフトのオンラインサービスもあるなどいまだに“現役”です。37年経過してもブランドが健在なのはなぜでしょうか。
◇37年経過しても“現役”
「ファミリーコンピュータ」は、世界で6191万本を出荷した家庭用ゲーム機で、「スーパーマリオブラザーズ」をはじめ、多くの人気ソフトを世に送り出しました。北米では「ニンテンドー・エンターテインメント・システム」として売り出され、ゲーム機自体が「ニンテンドー」と呼ばれるなど世界ブランド化に貢献しました。ですが20年後の2003年、部品の確保が難しくなり生産を中止、2007年には修理も終えて「ゲームオーバー」になったように見えました。
ところが2016年に「ニンテンドークラシックミニ ファミリーコンピュータ(ミニファミコン)」(5980円)として復活、品切れするほどの人気を博しました。またゲーム機「ニンテンドースイッチ」の有料オンラインサービスとして、ファミコンソフトが遊べますから、“現役”なのです。おまけにゲームの失敗を直前からやり直せる「巻き戻し」機能が付いていますから、クリアできなかったゲームに「リベンジ」できるなど、進化しています。
ファミコンは、えんじ色と白のシンプルなデザインで、価格は1万4800円。ソフトは別売りで1タイトルごとに約4000円でした。玩具としては、結構な額の買い物です。しかし「ドンキーコング」など100円硬貨が必要なアーケードゲームが、家で遊び放題になったのです。そしてファミコンのある家に子供が集まってテレビを囲む現象が起きました。あまりの子供たちの熱中ぶりに、世の親たちは批判的に見るほどでした。
◇当時は品切れの超人気商品
ファミコンの詳細については、開発責任者だった上村雅之さんの書籍「ファミコンとその時代」(NTT出版)で明かされています。ネットの記事でいえば、その上村さんと元広報部長の今西紘史さんの二人による、任天堂にいた当事者の昔語りも濃い内容になっています。
社長だった故・山内溥さんから上村さんの自宅に開発を打診する電話があったこと、開発時にゲームの心臓部となるチップの確保に困っていたところ偶然リコーから売り込みが来たこと、アーケードゲームのドンキーコングをファミコンで遊べるようにする例え話が、開発者の意欲を駆り立てたなど、ビジネスの手本になりそうな話が満載です。ビジネスの成功のタネの塊でして、朝ドラの題材になりそうなレベルです。
中でも注目すべきは、ファミコンの開発が、1980年に出た任天堂の携帯ゲーム機「ゲーム&ウォッチ」のヒット中の裏で進行していたことです。普通の企業ならヒット商品が出た瞬間に事業の軸足はそちらに向き、商品がすたれたときのことまで考えが及びません。さらに連続して社会的なヒット作を作るところに恐ろしさを感じます。現在のゲーム機ビジネスも、すぐに次世代ゲーム機の開発に取り掛かるわけですが、同じですね。
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ちなみにファミコンの累計出荷数「6191万本」を見て、「ニンテンドーDSは約1億5000万台だから少ない」と思う人がいるかもしれませんが、ゲーム機のビジネスが確立しておらず任天堂が手探りで拡大を模索し、人気を受けてマスコミのゲーム批判が強烈だった時代です。当時は超人気商品で、新型コロナウイルス拡大時の「ニンテンドースイッチ(スイッチライトではなく)」の品不足以上の状態が、1年以上続くような状態でした。
ファミコンは発売当初こそ店頭に並んでいたのですが、次第に店頭から消えたのです。その裏では、発熱が原因のトラブルが起きて、商品検査を徹底したことが明かされています。そうした流れもあり、人気になったにもかかわらず一時期入手困難になったのです。当時はインターネットがない世界です。ファミコンが欲しければ近所の玩具店に予約し、辛抱強く待つしかありませんでした。だから子供たちは、ファミコンのある友達の家に殺到したわけですが……。
ゲーム機が世界的な商品になるとは、誰も考えなかった時代の話です。商品さえあれば、もっと売れていたことは疑う余地がありません。
◇開発時に反対意見も
話は変わりますが、ソニーのゲーム機「プレイステーション2」が売れているとき、先輩記者から「任天堂の強みは?」と質問されました。私は「ソフトの力」と返答しましたが、先輩は首を振り「使い古された要素技術の組み合わせで新商品を作れること」と指摘しました。当時の任天堂は、ソニーとのゲーム競争で劣勢でしたが、それでも商品開発力を評価していたのです。
この話は、商品の要素技術を自社で開発しないから、「楽そう」と考える人がいるかもしれませんが、逆で高難度の話です。それで容易にヒット商品を作り出せるなら、誰もがやっています。既存の要素技術を活用するよりも、自力で要素技術を開発するのが早いのです。しかし、苦労の末開発しても、ビジネスに落とし込む段階で問題が発生して頓挫(とんざ)することも、また良くある話です。
こうした要素技術を活用する利点は、大規模な“テスト”が終了して技術が極めて安定していること、コスト削減が容易な点にあります。ただし、新商品を考える企画者は、血を吐くほど苦労をするでしょう。暖炉の上に雪だるまを乗せるような無理難題に挑み、既存にない方法で無理に解決し、その結果ヒットの保証がない「未知の商品」が生まれます。ところが苦労にもかかわらず、味方であるはずの社内から猛反対されるのも「あるある」です。ファミコンも例外ではなく、リコーの推薦したチップを採用しようとすると、任天堂の社内から反対意見が出たことを明かしています。
「ファミコン」「ニンテンドーDS」「Wii」「ニンテンドースイッチ」という大ヒットゲーム機を並べると、前評判は今一つだったという共通点があります。ファミコンの発表をしたとき、メディアからキーボードが(基本セットに)ないのにコンピューターなのかという質問が多く寄せられたそうです。上村さんの著書「ファミコンとその時代」の第3章「ファミコンの開発とその設計思想」の中で、「テレビでゲームを遊ぶ時代は既に終わっている、と多くのメディア関係者が考えていることを実感した記憶が現在もハッキリと残っている」と触れています。
この手の新機軸商品は、実際に売り出して、消費者が触らないと魅力は認識されません。前評判通りにヒットしたゲーム機は、PS2ぐらいでしょうか。そのPS2でも当初は「専用ソフトが売れない」と叩かれました。
◇子供にテレビゲームの楽しさ“布教”
ファミコンの登場時は、さまざまなテレビゲーム機が存在しました。ではファミコンがなぜ勝者になったかといえば、なかなか意見の分かれるところしょうし、身も蓋(ふた)もなくいえば、不明な点が多いのです。そもそもファミコンはゲーム機としては後発組で、カセットロムを使ったゲーム機も、似た価格帯のゲーム機も既に存在しました。さらにファミコン自体も発売後にトラブルが起きています。にもかかわらず、圧勝したのです。
確かに「ドンキーコング」や「マリオブラザーズ」という、アーケードゲームが家庭で遊べたことなど、ソフトの力を挙げる人が多いかと思います。しかし、任天堂以外の企業が参入し、ソフトの種類がそろうのはファミコンの発売から1年後以降の話です。特に立ち上がりから1年内の人気ぶりについては、一応の説明はつくものの疑問点があるのです。
書籍「ファミコンとその時代」でも「なぜ売れたか」は、「今後の課題」となっています。同書は、2013年のファミコンの発売30周年の際に発売されたもので、ファミコンの開発責任者を務めた上村さんや研究者が、資料や関係者の証言を元にさまざまなことがつづられています。
同書に収録された対談「ファミコンとは何であったのか」で、興味深い発言があります。当事者である上村さんが「今回僕が(大学の)研究に参加させてもらう上での最大の興味はファミコンがあれほど『何で売れたんや』ということです」「どうして日本で大きな爆発を起こしたのか、ぼくにとってはまだ謎です」と語っています。
複数の要因が重なったのは間違いありませんが、一つ言えることがあります。ファミコンは、コスト高になるリスクにもかかわらず、最初から分かりやすく二つのコントローラーがあり、複数人で遊べたソフトを送り出したことで、大きなプラスになったことです。二つあれば「複数人で遊べる」アピールになり、友達が複数集まれば、ファミコンの魅力を友達がプレゼンしているようなものです。テレビCM以上の宣伝、いや“布教”のような効果があったのではないでしょうか。そして子供は欲しがっても財力はありませんから、辛抱強く待って、その結果として購入機会が分散したのではないかと思うのですね。最初に問題を抱えていたファミコンには、購入機会の分散は好都合だったでしょう。
◇リアル「ゲーム実況」と思い出
2人で遊べるゲームは既に存在しましたが、当時のイメージとしては1人で遊ぶのが基本でした。特にファミコン登場の5年前に登場し、社会現象となったアーケードゲーム「スペースインベーダー」、「ゲーム&ウォッチ」も、1人で黙々遊ぶスタイルが当たり前でした。
ですが「マリオブラザーズ」などは、2人同時プレーの楽しさを、初めてテレビゲームに触れる子供たちに分かりやすく伝えました。協力プレーもできますが、最も熱中したのはお互いの妨害(バトル)ですね。あまりに感情が高ぶってケンカをしたという人もいるのではないでしょうか。
1人で遊ぶ「ドンキーコング」も交互にプレーでき、仲良くテレビ画面の前に座って遊べたわけです。また一緒に遊べば、互いのプレーを批評したり、一喜一憂できます。今でいうところの「ゲーム実況」も出現したでしょう。その「思い出」は色あせませんし、後日語り合えばさらに増幅します。ファミコンを敵にする家庭は多く、プレー時間を制限されていたり、ゲーム自体を親から禁止されていた子供もいたでしょう。「ミニファミコン」の発売時には「あのときの青春をもう一度」という、気持ちの高ぶりが後押ししているはずです。
ゲーム好きは忘れがちですが、ゲーム機は一般人からすると相応に高い買い物です。ですが、2人でも遊べるファミコンは、「兄弟(姉妹)で仲良く遊びなさい」となるわけです。よほどのゲーム嫌いの親でなければ、いくぶんは手を出しやすかったことでしょう。
そう考えると、当時は遊びに飢えていたなどの時流にも乗り、家族や友達と一緒にプレーできたことが、人気をけん引したのでしょう。1年後には他社のアーケードゲームも移植され、さらにその後はファミコン独自のソフトも生まれて、人気は不動のものになります。一連の要素の何かが欠けていれば、「ファミコン」のブームは生まれなかったのかも……とさえ思えます。そして、ファミコンに熱中した思い出は、現在のブランド力の維持につながっているのは疑いのないところです。
開発時の任天堂も、37年後に「ファミコン」のサービスが続いているとは、想定外だったでしょう。「ニンテンドー」のブランド力の向上に最も貢献し、ゲーム産業の礎(いしずえ)を築いた商品として、今日も“現役”のソフトとして動いているのです。
追記(2020年7月20日午後9時30分)書籍「ファミコンとその時代」部分の加筆、及び一部誤解を招く表現を修正しました。