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O・J・シンプソンが死去。殺人罪を免れた元スター選手は、俳優としてオスカーを狙っていた

猿渡由紀L.A.在住映画ジャーナリスト
1995年の刑事裁判はアメリカ中が注目した(写真:ロイター/アフロ)

 O・J・シンプソンが死亡したという突然のニュースに、アメリカが騒然となっている。享年76歳。近年はガンと闘っていた。

 華やかなキャリアを積んだ人物だが、誰もの頭に最初に浮かぶのは、間違いなく、あのカーチェイスだ。その頃すでにロサンゼルスに住んでいた筆者は、あの日のこと、そして彼の裁判の間の大騒ぎをはっきりと覚えている。

 事件の発端は、1993年6月13日早朝、ロサンゼルスのブレントウッド地区にあるシンプソンの元妻ニコール・ブラウンの家で、彼女と、彼女の友人ロン・ゴールドマンの血だらけの死体が発見されたこと。ゴールドマンは格闘技を得意としていたため、犯人は彼に勝る体力を持つ男性だろうと警察は推測。ふたりが結婚していた1989年、ブラウンがシンプソンによるDVを訴え、本人も罪を認めたという経緯もあり、シンプソンに容疑がかけられた。するとシンプソンは、白のフォード・ブロンコに乗って逃亡。ロサンゼルスを南北に走る405フリーウェイで、警察とのカーチェイスが始まった。

 その中継映像は、全米で9,500万人が見たといわれる。この数字には筆者も納得だ。なにせ、あの日は、どこのオフィスや店でも、テレビがあるところではみんなが仕事の手も止めて釘付けになっていたのだ。この出来事の後、アメリカのテレビでは警察によるカーチェイスの中継が定番となった。

 1995年に始まった裁判で、シンプソンは「夢のチーム」と呼ばれる最強の弁護士を付けて激しく闘った。そのチームの中には、キム・カーダシアンの父ロバート・カーダシアンもいた。彼の弁護チームは、証拠とされる手袋がシンプソンの手には小さすぎると主張、シンプソンは罪を免れる。しかし、その後、ゴールドマンの遺族から訴えられると敗訴し、ゴールドマンとブラウンの遺族に対して3,350万ドルの支払いを命じられた。民事は、シンプソンに罪があると判断したということである。

「オスカーかエミーを受賞したい」と夢を語る

 この裁判もまたアメリカでは毎日のトップニュースとなり、その後、この一連のことについては、多数のドキュメンタリー番組や、キューバ・グッディング・Jr.主演のドラマ「アメリカン・クライム・ストーリー/O・J・シンプソン事件」などが制作された。しかし、この事件が起きる前、シンプソンは、ハリウッドにおいてただネタとして取り上げられる人物ではなく、その真ん中で活躍していた業界人だったのである。NFLのスター選手だった彼は、俳優としてのキャリアについても、同じくらい真剣に考えていたのだ。

 彼が演技を始めたのは、南カリフォルニア大学在学中の1960年代後半。初めての仕事はテレビドラマ「Dragnet 1967」。ロサンゼルス警察が新人をリクルートしようとしているシーンで、シンプソンはその部屋に座っているせりふのない若者のひとりとして出演した。その後も、いくつかのテレビドラマにゲスト出演を果たす。

 フットボール選手としてプロ入りしてからも演技は続け、1974年にはスティーブ・マックイーン、ポール・ニューマン主演の「タワーリング・インフェルノ」、テレンス・ヤング監督の「クランスマン」に出演。続いて「ダイヤモンドの犬たち」「カサンドラ・クロス」に出演した。

 1977年にはエミー賞を受賞した大ヒットドラマ「ROOTS/ルーツ」に出演。当時、シンプソンのマネージャーだったチャック・バーンズは、「Los Angeles Times」に対し、「将来、彼は、今フットボールでやっているのと同じレベルのことをスクリーンでもやれるようになるだろう。彼は、違う役に挑戦するのが好きなのだ」と語っている。

 そんなシンプソンは、1979年にフットボール選手を引退すると自分のプロダクション会社を立ち上げ、ハリウッドでの仕事にますます力を入れた。コメディ映画「裸の銃(ガン)を持つ男」シリーズには、全3作に出演。日本未公開のサスペンス映画「ノー・プレイス・トゥ・ハイド」ではクリス・クリストファーソン、ドリュー・バリモアと共演した。1980年の「Los Angeles Times」のインタビューで、シンプソンは、「オスカーかエミーを受賞することはいつも、夢の中にゴールとしてある。オスカーかエミーを受賞するということは、この業界において優秀だと認められることだから。ぜひそれを手にしたい」と語っている。

告白本もハリウッド復帰を困難に

 しかし、それが実現することはなかった。1994年に完成していた出演作「Fogman」は、事件を受けてNBCが放映中止を決定。また、この時には刑務所入りを逃れたものの、その判決から12年後の2007年には5人の男たちとラスベガスのホテルに押し入り、多数のスポーツ記念品を盗んだ容疑で逮捕され、実刑を言い渡された。釈放されたのは2017年。

 それだけ長いこと刑務所にいたため物理的に無理だったことに加え、彼が殺ったのだと世間が信じていることも、ハリウッドの復帰を難しくした。民事裁判で言い渡された3,350万ドルを払うため、シンプソンは告白本「If I Did It」(もし私がやったのなら)を書いたのだが(実際に書いたのはゴーストライター)、ゴールドマンの遺族が裁判でその原稿の権利を獲得。ベストセラーになったその本の収益はすべてゴールドマンの遺族に入ることになった。また、ゴールドマンの遺族は、本の表紙をデザインするにあたり、「If」という単語をほとんど見えないほど小さくし、「I Did It」(私はやった)に見えるようにした上、「Confessions of the Killer」(殺人犯の告白)という副題もつけている。

「If」はとても小さく、ほとんど見えない(amazon.com)
「If」はとても小さく、ほとんど見えない(amazon.com)

 最近では、ガンの治療をしていることもわかっていたし、杖をついて歩く様子もパパラッチされていた。だが、そんな中でも久々に演技の仕事に復帰を果たしていたようで、IMDbのフィルモグラフィーには、「Mayday Z」という新作がリストされている。キャストはシンプソンのほか、エリック・ロバーツ、タラ・リードなど。監督はマイケル・パレ。インディーズのアクション映画で、撮影は昨年終わっているようだ。

 公開予定は、一応2025年となっている。彼の最後となった映画は、どんな作品なのか。いずれにしても、彼の死についてのソーシャルメディアでの反応を見るかぎり、人々がこぞって見に来ることはないだろう。フットボールでも、ハリウッドでも活躍した彼は、殺人犯として歴史に残るのだ。天国にいるブラウンとゴールドマンは、こんな彼の最期をどんな思いで見つめているのだろうか。

L.A.在住映画ジャーナリスト

神戸市出身。上智大学文学部新聞学科卒。女性誌編集者(映画担当)を経て渡米。L.A.をベースに、ハリウッドスター、映画監督のインタビュー記事や、撮影現場レポート記事、ハリウッド事情のコラムを、「ハーパース・バザー日本版」「週刊文春」「シュプール」「キネマ旬報」他の雑誌や新聞、Yahoo、東洋経済オンライン、文春オンライン、ぴあ、シネマトゥデイなどのウェブサイトに寄稿。米放送映画批評家協会(CCA)、米女性映画批評家サークル(WFCC)会員。映画と同じくらい、ヨガと猫を愛する。著書に「ウディ・アレン 追放」(文藝春秋社)。

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