漫画『100日後に死ぬワニ』と大河『麒麟がくる』に共通する“死生観”
漫画『100日後に死ぬワニ』は何を訴えてくるのか
『100日後に死ぬワニ』はツイッターで連日更新されている4コマ漫画である。
ワニ少年の何気ない日常が描かれている。
バイト先の仲間たちに繰り返し「少年」と呼ばれているので、若いのだろう。
就職しなよと勧められていたから、どこにも勤めず、アルバイトで生活しているみたいだ。
特にやりたいことはないが、でも何にでもなれると言われれば「プロゲーマー」になりたいと言っていた。
ふつうの若者である。バイトをして、ラーメンを食べて、ゲームをやって、テレビを見て、こたつにあたっている。バイト先に好きな「センパイ」ワニがいたが、そのバイトは辞めてしまった。
この漫画の連載が始まったのが2019年12月12日。
最初は、テレビを見ているだけの4コマが描かれ,最後に「死ぬまであと99日」と書かれている。
『100日後に死ぬワニ』というタイトルと、漫画ごとに出るカウントダウン「死ぬまであと何日」のふたつ仕掛けによってとにかく気になる漫画になっている。
話題にもなっている。
100日といえば、三か月とちょっとだ。
2019年12月12日を1日目とすると、3月20日が100日目になる。
この3月20日に彼は死ぬんだ、とおもいつつ、毎日の何でもない生活を眺めている。
読者は彼の死期を知っている。彼は自分の死期を知らない。
だから読者だけが胸を乱される。
ワニ少年は、人気のために品切れになり発送が一年後になる通販商品を、頼んでいる。
おもしろい映画を見たあと「続編が作られる」との噂を耳にして、楽しみにしている。
漫画『ワンピース』を読んでおもしろいなと嘆息したあと、結末はどうなるんだろうと想像している。
おそらく彼は、どれにも間に合わない。商品が届くころにはこの世におらず、映画の続編やワンピースの最終話も見ることができない。100日後、3月20日に死ぬなら、どれも間に合わないだろう。
当人が何も気にしてないぶん、心に刺さってくる。
いつ死ぬか知らず、自分の未来を信じているのは、それはまたこの漫画を読んでいるわれわれ自身の姿でもあるからだ。
「死ぬまでの日数」を明らかにするというだけで、世界はまったく違って見えてくる。
登場人物の死ぬ日がわかっている“神の目”
登場人物の死ぬ日を知っている、という点でいえば、歴史ドラマも同じ構造で作られている。
有名な歴史上の人物は、だいたいその最後は知られている。いつ死ぬかわかっていて、物語は作られ、われわれはそれを見ている。
“神の目”を持っていると言っていいだろう。
織田信長は、西暦でいえば1582年、天正10年の6月1日の夜中(6月2日未明)に本能寺で死ぬ。明智光秀は、その十日余りのちに死ぬ。
織田信長も、明智光秀も『天正10年6月に死ぬ武将』である。そのことを承知でドラマ『麒麟がくる』を見ている。
ただ明確に意識しているわけではない。
自分がいつか死ぬとは知っているが、具体的にいつなのかを探ろうとしないように、テレビドラマでも彼らの死の時期を細かく意識していない。
『麒麟が来る』第6話の舞台は天文17年1548年だった。
三好長慶が細川晴元の手下に襲撃され光秀が助けに入っていた。
このとき「光秀が死ぬまであと34年と数ヶ月」である。襲われた三好長慶は永禄7年まで生きるから「長慶が死ぬまであと16年」であり、共に戦った松永久秀は「久秀が死ぬまであと29年」である。
いちいちテロップでそういうのが出ると、ちょっとおもしろいなとおもった。彼らがここで死なないことがその画面でネタバレしてしまうが、でもまあ歴史的事実なのだからそれぐらいはしかたない。あとどれぐらい生きるかがいちいち出てるとおもしろい。(山本直樹の連合赤軍を描いた漫画『RED』では殺される人たちに死ぬ順番に番号を打っていた、とういのをおもいだした)
ただ「あと34年で死ぬ」は長い。
「16年で死ぬ」でも充分長い。
「あと100日で死ぬ」からどきどきするわけで、10年以上生きるとなると、どうでもよくなってしまう。たぶん1年を切らないと、どきどきしないだろう。
向井理が演じる「気になる人物」十三代将軍足利義輝
ただ『麒麟がくる』で私はひとりとても気になる人物がいる。
足利義輝である。
向井理が演じている。
足利幕府の第十三代将軍。
彼は天文5年生まれだから、第6話の天文17年には、まだ12歳で、前年から将軍職に就いている。『麒麟がくる』6話ではあまり12歳には見えなかったが、そのへんは曖昧でいいのだろう。私はべつにかまわない。
彼は永禄8年5月に死ぬ。(もし知らなくてネタバレになったらごめんなさい。でもまあ、歴史事実だから)。
天文17年は1548年。永禄8年は1565年。まだ17年ある(三好長慶の死亡の翌年になる)。
でも、殺される。
将軍でありながら殺される。しかも正面切って攻撃されて殺されるという、日本史上珍しいできごとである。
征夷大将軍が在職中に殺されるというのは稀である。
彼以前に殺された有名な将軍といえば、二人しかおもいうかばない。
鎌倉幕府の三代将軍の源実朝。
室町幕府の六代将軍の足利義教。
実朝は鎌倉八幡宮参宮のおりに甥の公暁に殺された。
義教は義輝の高祖父(祖父の祖父)にあたるが、赤松満佑らによって宴の最中を襲われて殺された。
どちらも暗殺である。不意を打たれて殺された。
足利義輝は、不意を打たれたといえばそうであるが、永禄8年5月、将軍の居場所である二条御所にいるところを武装軍に襲撃された。小さいが戦さである。将軍みずからも刀をとって戦ったが、殺された。(ネタバレになってたらごめん)。
義輝の最期は武士らしく雄々しい。
そのぶん、私としてはどうしても悲劇の将軍に見える。
三好氏や松永氏の力が強く、京都地方やその周辺を支配していた時代である。義輝もさまざまな政治活動を行っているが(その政治活動ゆえに殺されたのだが)、もうしわけないが、とくに印象に残る彼の事績がおもいうかばない。
だからどうしても、足利義輝を見るたび「最後は戦って殺される将軍」としてしか見られないのだ。
ちょっと「あと100日で死ぬワニ」を見るのに近い気分である。申し訳ないとおもうがしかたない。
死に際で覚えられる歴史上の人物と、生前で覚えられる人物の差
おそらくその死に際で覚えられる歴史上の人物と、そうではない人物がいるということなのだろう。坂本龍馬は、かなり死にかたで覚えられているところがある。そういうタイプらしい。
「実際に歴史に残る何をやったか」による差なのかもしれない。
(志半ばだったということなのだろうけど、坂本龍馬は裏で動くちょっとした政治フィクサーであったが、そんなに歴史に名を残すほどの仕事はしてないんじゃないか、と司馬遼太郎を読んでから四十年以上たつとつくづくそうおもう)。
ただ、役者は、それを知らないふりで演じないといけない。
「結末から逆算して演技をするな」と言われる部分である。
光秀役の役者は、ああ、いつかこの人を殺すんだな、とおもって信長役と接してはいけない、ということである。あたりまえですね。でも、やっちゃうんだよ。
それは「役者の身体性」にまかされている。将来のことなどまったくわかっていない、というふりで演じていても、何かしら匂いたつような哀しみや明るさを振りまく役者がいる。
それがいい役者である。
本人の演じている方向と別の匂いを感じさせれば、とても魅力的に見える。
大河ドラマ『麒麟がくる』の役者をみていると、その「戦国時代らしい身体性」にかなり重きをおいて選んでいるのがわかる。
身体性でわくわくさせる人たちを選んでいるようにおもう。なかなか鋭い人選である(あらためて帰蝶役は、沢尻エリカだったんだな、とおもいいたってしまう)。
いかにも「16世紀半ばの“いま”」を生きている気配が横溢としている。そこがこのドラマの初動の魅力であった。
第7話はおそらく天文18年である。
「信長と一緒に帰蝶が死んでしまうまであと33年」(本能寺で死ぬ説を取れば、ですけど)
「明智光秀が死ぬまであと33年」
「三好長慶が死ぬまであと15年」
「松永久秀が死ぬまであと28年」
「将軍義輝が殺されるまであと16年」
である。
まだまだ長い。
第7話放送時点の3月1日で、ワニ少年は「死ぬまであと19日」である。
おそらくどちらからも発せられているメッセージは「いまを生きろ」ということなのだろう。
「いまを懸命に生きろ」である。
ただ、がんばるしかない。