武田氏滅亡。土壇場で武田勝頼を裏切った3人の武将とは?
今は、さすがに殺されることはないにしても、会社で部下に裏切られる上司がいるかもしれない。天正10年(1582)3月に武田氏は滅亡したが、武田勝頼は信頼する家臣から裏切られたので、そのうち3人を紹介することにしよう。
◎木曽義昌(1540~1595?)
木曽義昌は武田信玄の時代に服属し、信玄の娘を妻として迎え、親族衆として処遇された。以後は武田氏に従って各地を転戦したが、たび重なる軍役の負担に対して、義昌は勝頼に不満を募らせたといわれている。そんな義昌に目を付けたのが織田氏である。
義昌は遠山氏を通して、勝頼から寝返ることを織田氏に伝えた。義昌の裏切りを知った勝頼は、人質だった義昌の老母や長男・長女を処刑した。しかし、義昌は織田氏からの援軍を得て、武田信豊の軍勢を打ち破り、織田氏の武田氏征伐に貢献したのである。
◎穴山梅雪(1541~1582)
穴山氏は武田氏の御一族衆であり、梅雪は信玄、勝頼に仕えていた。天正10年(1582)に織田氏が甲州征伐を開始すると、梅雪は武田氏を裏切ったのである。
戦後、梅雪は徳川家康の与力となり、甲斐河内領と駿河江尻領を安堵された。同年5月、梅雪は家康とともに安土城で信長との面会に臨んだが、直後に本能寺の変が勃発した。梅雪は家康とともに逃亡したが、宇治田原で郷民により殺害されたのである(梅雪の最期は諸説あり)。
◎小山田信茂(1539?~1582)
小山田氏は甲斐東部郡内領の国衆で、信茂は信玄、勝頼に仕え、各地を転戦した。織田氏が天正10年(1582)に織田氏が甲州征伐を開始した際、信茂は勝頼に従っていた。やがて、劣勢になった勝頼は新府城を捨て、信茂を頼ることにした。
ところが、信茂は勝頼を見捨て、織田方に寝返った。勝頼一行が信茂に助けを求めると、これを拒否し鉄砲を放った(裏切った過程は諸説あり)。これにより武田氏は滅亡したが、戦後、信茂は勝頼を裏切ったことを非難され、織田信忠から切腹を命じられたのである。