<シリア>ISの過激教育恐れ、学校行けず(写真8枚)
◆「誰もが犠牲者」 IS支配耐えたラッカ住民
かつてイラク・シリアにまたがって広範な地域を支配した過激派組織イスラム国(IS)。その「首都」と呼ばれたのがシリア北部のラッカだ。クルド勢力主導のシリア民主軍は激戦を経て町を制圧、3年半に及んだISの支配は終わった。2018年秋、私はラッカに入った。空爆で崩れ落ちた建物、銃弾だらけの壁。果てしなく続く瓦礫が、戦闘の凄まじさを物語る。(玉本英子/アジアプレス)
ウベイ・ビン・カーブ中学校は、ISが去ってからようやく授業が再開したばかりだった。女子中学生のクラスではちょうど宗教の時間だった。イスラム教の聖典コーランの言葉を生徒が丁寧にノートに書きとっていく。ISの掲げたイスラムをどう思っているのか、生徒たちに聞いてみた。
「信仰は人びとの心を支えるもの。残酷に人を殺すのは宗教じゃない」。
「国家」を名乗ったISは、独自解釈したイスラム法に基づく統治を布告、社会制度を次々と変えていった。女性には全身と顔を覆う黒いヒジャブの着用を義務付け、衛星放送テレビの視聴も禁止になった。背教徒として、占い師を斬首したり、同性愛者とみなした男性をビルから突き落として殺害した。敵の協力者やスパイとされた者は、広場で処刑され、遺体は数日間放置されることもあった。
当時、ISはイスラム理念による学校教育を映像で大々的に宣伝した。そこには男女の小学生が学ぶ姿も映っている。確かに学校は存在し、女子教育も否定しなかったが、実際にはISの過激主義に染まるのを恐れた親の多くが、子供を学校に行かさなかった。とくに女子中学生を持つ親は、娘が見知らぬ戦闘員と結婚させられるのでは、と不安が大きかったという。
教師は宗教指導を受けさせたうえ、バグダディ指導者に忠誠を誓わせた。一方、失職や解雇で生活が困窮したり、町から脱出する教師もあいついだ。
ラッカ市内のダライヤ地区では、近所に住むある女性教師の収入が途絶え、隣人たちが小さな地下学校を作った。子供たちをこっそり家に集め、授業を続けてもらい、教師の生活を支えた。内戦で経済は破綻し、誰もが生活苦だったが、互いに助け合った。
「学校に行けないから、毎日、家で書き取りをしていた」。
当時、勉強を続けた小学生アリ・ヒシャムくん(8)はノートを見せてくれた。鉛筆で一生懸命に書いたアラビア語の文字が並ぶ。ISに見つかれば処罰されかねないなか、住民は教師を支えた。
ウベイ・ビン・カーブ中学校の生徒たちは、いくつものつらい経験を語ってくれた。
「家族が戦闘に巻き込まれた」「父がISにスパイの疑いをかけられた」。
ウィア・マレハさん(15)は、あいつぐ空爆で親族あわせて41人を亡くした。最後に先生が付け加えた。「私も父と兄妹の5人を爆撃で失いました。住民の誰もが犠牲者です」。
授業の最後、女子生徒のひとりが私のために歌ってくれた。戦闘激化で、ラッカから避難した先のキャンプで広まった歌という。
「私の心は焼かれそう、ラッカよ、あなたに会いたい。家族の団らんがあったあの日に戻りたい。ああ恋しいラッカよ」。
その美しい歌声は、いまも私の心に響いている。
(※本稿は毎日新聞大阪版の連載「漆黒を照らす」2019年10月1日付記事に加筆したものです)