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【北アイルランド・ルポ】英国はEU離脱 ー国境の町ストラバーンを歩く

小林恭子ジャーナリスト
「厳しい国境管理(ハードボーダー)」設置に反対するプラカードが置かれている(写真:ロイター/アフロ)

 1月31日午後11時(英時間)、英国は欧州連合(EU)から離脱した。EU加盟国の離脱は今回が初。1973年、EUの前身となる欧州共同体(EC)に加入した英国にとって、47年ぶりに欧州統合の動きから外に出たことになる。

 英国は歴史的な転換の日を迎えたが、各地域に目をやると不協和音が聞こえてくる。

 離脱の是非を問う国民投票(2016年)で、英国全体及びイングランド地方とウェールズ地方では離脱支持票が残留票を上回ったが、スコットランド地方と北アイルランド地方では残留票の方が大きかった。

 後者の2つの地方の住民にとって、離脱は住民の意に反した動きになりそうだ。

北アイルランドは、どうなる?

 北アイルランド(人口約190万人)は、アイルランド島南部のアイルランド共和国(約480万人)と地続きだ。アイルランド島の南部にあるアイルランド共和国がEU加盟国であり続ける一方で、北部はEUから離脱する。

 英政府とEU側は、「北アイルランド紛争」(1960年代末から1998年)を経て、北と南の間で国境検査を含む厳しい国境管理(ハードボーダー)をしないという離脱前の状態を維持するため、特別な措置を取ることで合意している。

北アイルランド紛争とは

 多数派プロテスタント住民と少数派カトリック住民との対立が、それぞれの宗派を代表する民兵組織によるテロ行為や、暴力鎮圧のために派遣された英軍による介入にまで拡大した紛争を指す。3600人以上が命を落とした。1998年、ベルファスト和平合意が成立し、後に両方の宗派を代表する政治家による自治政府が成立した。

 離脱後の特別な措置とは:

 ー離脱後、英国はEUの関税同盟から出る

 ーしかし、北アイルランドは農産品、食品安全、工業製品の流通においてはEUの規則に従う

 ー今後もEUの規則に従うかどうかは、4年に1度、北アイルランドの政治家が決める

 ただし、英国とEUはこれから貿易を含むさまざまな領域での協力関係について交渉に入るため、細かな点は今後詰めていくことになる。

 英本土とは別格扱いとなった取り決めに対し、不安感を持つ人は少なくない。

 離脱をきっかけに、北部と南部とが一つの国になる可能性が浮上し、英国への帰属維持を志向するプロテスタント住民を落ち着かなくさせている。

 また、もし南北間の人やモノの移動に支障が出て、なんらかの形の国境検査が復活せざるを得なくなれば、北アイルランド紛争でテロ行為を繰り返した民兵組織の残滓が突発的な暴力事件を再燃させるとも言われている。

 離脱を目前に控えた北アイルランドの様子を伝えたい。

どちらが英国か、アイルランドか?国境付近を歩く

 北アイルランド(英国)と南のアイルランド共和国との国境を見てみようと、北アイルランドの第2の都市デリー/ロンドンデリー(人口約10万人)から、バスでストラバーン(人口約4万人)に出かけてみた。ここを流れるフォイル川が2つの地域を分ける国境になるという。

 ストラバーンは、北アイルランド内でもっとも爆弾による攻撃を受けた場所として知られている。

 北アイルランド紛争時には銃撃や爆撃が日常茶飯事で、カトリック系民兵組織「アイルランド共和軍(IRA)」や「IRA暫定派」が、ストラバーンに拠点を置いていた英軍や地元の王立アルスター警察隊(RUC)(2001年、北アイルランド警察=PSNI=に)を攻撃した。

 バスを降りて、街中を歩く。

 日曜日の夕方に訪れたせいか、繁華街と思われる場所でも人通りはあまり多くなかった(英国では、日曜日の夕方、小売店が早仕舞いをする習慣がある)。

ストラバーンの街並み(撮影筆者)
ストラバーンの街並み(撮影筆者)
(撮影筆者)
(撮影筆者)
(撮影筆者)
(撮影筆者)
イベントが開催される「ザ・アレー」(撮影筆者)
イベントが開催される「ザ・アレー」(撮影筆者)

 通りの最後まで来て、橋を渡ろうとしたところ、英国から独立するための武装行動「イースター蜂起」を主導したパトリック・ピアースが読み上げた、アイルランド共和国樹立宣言が建物の壁に貼ってあるのが見えた。

 イースター蜂起とは、1916年の復活祭(イースター)週間にダブリン(今のアイルランド共和国の首都)で発生した武装蜂起。英国から独立し、共和国を樹立するためにアイルランド共和主義者たちが引き起こした。中心人物がパトリック・ピアース。アイルランド共和国暫定政府の樹立を暫定大統領となったピアースが宣言した。蜂起は失敗し、ピアースを含む主導者は処刑された。アイルランド島の南部が独立を果たし、プロテスタント住民が大多数だった北部の6州=今の北アイルランド=が英国に残ることを決意するのは、1920年代である。

建物の壁に「宣言」が貼ってあった(撮影筆者)
建物の壁に「宣言」が貼ってあった(撮影筆者)
「宣言」(撮影筆者)
「宣言」(撮影筆者)

 文化イベントが行われる「ザ・アレー」の建物に入り、「どこに行けば、国境を見られるか」と聞いたところ、「Let the Dance Begin(さあ、踊りを始めよう)」というアート作品を紹介された。かつて、ここに国境検査所が設けられ、英軍が行き来する車・人を検査していたという。

 15分ほど歩くと、交通量の激しい道に面した草むらに金属製のアート作品が置かれていた。筆者が行ったときはちょうど、あるイベントのために作品に特別の扮装が施されていたので、Wikipedia収録の画像を紹介してみたい。

撮影Kenneth  Allen/Let the Dance Begin(The Tinnies)
撮影Kenneth Allen/Let the Dance Begin(The Tinnies)

 ストラバーンのリフォード・ロード・ラウンドアバウトにある作品は、デリー出身のアーティスト、モーリス・ハロンの手によるもので、和解がテーマとなっているという。

 風が強まり、雨も降ってきた。家族連れがやってきて、子供たちが作品の周りで飛び跳ねている。

 作品を囲む道を少し歩いた。

 左右を見たが、どこからが英国でどこからがアイルランド共和国なのかすぐにはわからなかった。

アート作品周辺の道。首を左に曲げると、こんな光景が広がる(撮影筆者)
アート作品周辺の道。首を左に曲げると、こんな光景が広がる(撮影筆者)
右に曲げると、こんな光景に(撮影筆者)
右に曲げると、こんな光景に(撮影筆者)

地元紙による、市民の声

 地元紙の一つ「デリー・ジャーナル」が、英国のEUからの離脱直前の声を拾っている(1月28日付け)。

 デリーはカトリック市民が大半を占める地域(2011年の国勢調査によると67.4%がカトリック、19.4%がプロテスタント系、約13%がその他)だが、3年前の国民投票ではフォイル選挙区の有権者約78%が残留に票を入れている。

 デリーの中でもカトリック住民が圧倒的に多いクレガン地区に住むリアム・ディーリーさん(67歳)は離脱によってアイルランド島の統一への動きが加速するだろうとみている。「統一には大賛成だ。国境はだんだんなくなっていくよ」。

 ショーン・プロクターさん(50歳)は厳しい国境管理の時代には戻らないだろうと予測する。「後悔しないといいなと思う。政治家が最善を尽くしてくれれば、と」。

 キャロライン・ハーキンさん(55歳)は、これまでEUから北アイルランドに提供されてきた支援金がどうなるのかが懸念だという。「南北で自由に人の往来ができる時代は素晴らしかった。今後は、物理的な国境を置かないでどうやっていくのかしら」と不安げだ。

アイルランドのパスポートを持つ人が増加

 BBCニュースの報道によると、現在、北アイルランドの住民の少なくとも70万人がアイルランドのパスポートを持っているという。そのうちの20万人は、3年前の国民投票の結果が出た後に申請した分だ。

 英国では二重国籍が認められており、英国のパスポートと他の国のパスポートを持つことが可能だ。

 この「70万人」は過去10年間にアイルランドのパスポート取得を申請した件数で、実際にはこれ以上の人が英国とアイルランドのパスポートを持っている可能性があるという。

 これから先、離脱後の通商交渉が進む中で、アイルランドのパスポートを「万が一」のために取得したいと思う人は増えるかもしれない。

 先の国民投票ではイングランド地方とウェールズ地方では離脱が支持され、スコットランド地方と北アイルランドでは残留派が多かったことを冒頭で伝えた。

 ロンドンがあるイングランドを離れて北アイルランドに来てみると、英議会があるロンドン・ウェストミンスターは物理的にばかりか心理的にも遠い。

 市民は民主的な手段で残留を選んだのに、英国の一部であることから離脱せざるを得ない北アイルランド。離脱後は別格扱いとなり、将来への不安が高まる中、英政府には「何も期待していない」という声を市民の何人かから聞いた。

 離脱へのカウントダウンが始まったイングランドが「外国」にさえ見える北アイルランドでは、忘れられない爪痕を残した紛争の「影」がいまだに残る。なぜ市民は今、「何も期待していない」と思うのだろうか。

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ロンドンデリーかデリーか

 法的な名称はロンドンデリー。もともとデリーでしたが、17世紀以降、プロテスタントであるイングランド人やスコットランド人が入植者として北アイルランドに入り、1613年、ロンドンのギルドによる市の設立を反映した名称として「ロンドンデリー」になった経緯があります。どの呼称を使うかで、プロテスタント系かカトリック系(「デリー」を使用)かの帰属が分かります。ただし、地元では「デリー」が一般的なようです。公的な標識、説明文では「Londonderry~Derry」と両方を併記する場合が目立ちました。筆者の記事は現地ルポという性格から、基本的には「デリー」を使っています。

ジャーナリスト

英国を中心に欧州各国の社会・経済・政治事情を執筆。最新刊『なぜBBCだけが伝えられるのか 民意、戦争、王室からジャニーズまで』(光文社新書)、既刊中公新書ラクレ『英国公文書の世界史 -一次資料の宝石箱』。本連載「英国メディアを読み解く」(「英国ニュースダイジェスト」)、「欧州事情」(「メディア展望」)、「最新メディア事情」(「GALAC])ほか多数。著書『フィナンシャル・タイムズの実力』(洋泉社)、『英国メディア史』(中央公論新社)、『日本人が知らないウィキリークス』(洋泉社)、共訳書『チャーチル・ファクター』(プレジデント社)。

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