【九州三国志】九州探題、大友義鎮の栄光と苦難!信仰と権力、毛利との激闘の果てに
永禄2年(1559年)、大友義鎮(のちの宗麟)は、室町幕府12代将軍・足利義輝への多大な献金を通じて、豊前・筑前国の守護職に任じられると同時に、九州探題の地位を手にしました。
さらには、大内氏家督の承認権や、周防・長門への進出を許可されるなど、幕府の威光を背景に九州全域への覇権を確立していきます。
この時期、大友氏の権威は名実ともに最高潮を迎えました。
翌永禄3年には左衛門督に任官され、朝廷や幕府からの信任を背景に、九州最大の大名としての地位を盤石なものにします。
この華々しい表舞台の裏には、大友義鎮が幕府や朝廷に惜しみない献金を行い、政治的手腕を発揮していたことが垣間見えます。
義鎮は、自らの正統性を高めるため、幕府の権威のみならず宗教的な大義名分も利用しました。
宇佐八幡宮への寄進を行い、毛利氏を「神敵」と非難するなど、信仰を武器に民衆や武士団を動員しました。
しかし、順風満帆に見えた義鎮の覇業も、毛利元就という強敵の出現により暗雲が立ち込めます。
永禄5年(1562年)の門司城の戦いで毛利軍に敗北し、義鎮は出家して「休庵宗麟」と号したのです。
以後、宗麟は宗教的信仰を前面に押し出しながら、毛利氏との戦いを継続します。
毛利元就の圧力が北九州に及ぶ中、宗麟は重臣・立花道雪らを派遣して内通者や反乱を鎮圧しました。
また、宣教師との連携を深め、硝石の輸入を通じて鉄砲を戦略的に活用し、毛利氏に対抗します。
この際、宗麟は毛利氏を「キリスト教の敵」と位置付け、国内外で自らの正当性を主張しました。
永禄12年(1569年)、宗麟は毛利氏の侵攻に対応しつつ、肥前国で勢力を拡大する龍造寺隆信を討伐するため出陣しますが、毛利軍の侵攻により撤退を余儀なくされます。
それでも彼は、巧みに外交と軍事を組み合わせ、ついには大内輝弘を周防に送り込み毛利氏の背後を脅かす「大内輝弘の乱」を引き起こし、毛利元就を撤退させることに成功します。
宗麟の治世は戦乱に明け暮れる一方、経済面でも革新が進みました。
支配下の博多や堺の商人のみならず、豊後府内の豪商仲屋宗越らを御用商人として厚遇し、対外貿易を推進しました。
宗麟の外交は国内にとどまらず、カンボジア国王との交易関係を築くなど、国際的な視野も持ち合わせていたのです。
しかし、交易船が嵐や封鎖により消息を絶つなど、困難が続きました。
こうして宗麟は、北九州の覇者としての栄光を築きながらも、多くの苦難に直面しました。
信仰と権力を巧みに利用した彼の物語は、戦国時代という荒波を渡る大名の姿を象徴しています。