「最後はフルスイング」のこだわり捨てチームのために──現役21年、岩村明憲“最後”の打席
日米で通算2254安打を放った井口資仁(来季から千葉ロッテ監督)をはじめ、今年も多くのプロ野球選手がその現役生活に別れを告げた。東京ヤクルトスワローズやメジャーリーグのタンパベイ・レイズなどで日米通算1585安打、209本塁打をマークした岩村明憲(38歳)もその1人だ。ただし、その最後の舞台はNPBではなかった。
2017年9月10日、福島県郡山市のヨーク開成山スタジアム。絶好の野球日和に恵まれたルートインBCリーグ、福島ホープス対武蔵ヒートベアーズのシーズン最終戦には、福島球団創設以来最多となる3607人のファンが詰めかけていた。お目当ては背番号1、ホープスが誕生した2015年から選手兼任監督としてチームを率いてきた岩村、その人である。
この日の試合が「岩村明憲選手引退試合」と銘打って行われることは、1カ月以上も前から告知されていたが、フタを開けてみれば単なる引退興行ではなかった。最後の最後までプレーオフ進出を争っていたホープスにとって、引き分け以上で3年連続の地区チャンピンシップ出場が決まるという、大一番になったからだ。
バットを指1本分、短く持ってチャンスメイク
その大事な一戦を前に、監督でもある岩村は「多くの方になるべく長く自分のプレーを見てもらおう」と考え、自らを一番・DHで起用した。一番は、メジャーリーグ時代に最も数多く打席に立った打順でもある。その当時に身につけた「リードオフマンとしての働き」を、監督・岩村は選手・岩村に課した。
「僕が監督として岩村選手に期待するのは、ホームランもそうだけど、とにかく塁に出てほしい。チャンスメイクが大事だろう、と」
ところが、初回の第1打席はセカンドゴロ。1死満塁という絶好のチャンスで迎えた2回の第2打席もセカンドゴロで、最悪のダブルプレー。1点ビハインドの5回裏、無死一、二塁で回ってきた3度目の打席も、初球のど真ん中に入ってきたストレートを見逃してしまう。
「『やっちゃったな』と思ったんですけど、2球目のチェンジアップをファウルにして、逆にそこでスイッチが入りました」
3球目は外れてカウントは1-2。ちょっと長く持っていたバットを「なんとかチャンスを広げたい」という思いで指1本分短く持ち、単打を狙いにいった。4球目を逆方向にはじき返し、三遊間を破るレフト前ヒット。満塁にチャンスを広げ、続く二番・岸本竜之輔の逆転2点二塁打につなげた。
「2打席目はゲッツー。監督からしたら『何やってんだ、お前』って言われるところで、その後に取り返すのがすごく大事だということを(選手たちに)伝えていますから」
最後は「三振して終わる予定だった」
岩村はヤクルト時代には2004年の44本を皮切りに、3年連続で30本以上のホームランを打ったこともあるスラッガーだ。この試合でも「もし点差が離れていて、なおかつ自分たちがリードしているのであれば、ホームランももしかしたら狙っていたかもしれない」としながらも、現役最後の打席は「三振して終わる予定だったんです。一生懸命、フルスイングして終わろうと思っていたんですけど」という。
それはヤクルト時代の大先輩、池山隆寛(現東北楽天二軍監督)の引退試合が強く印象に残っていたからだろう。ヤクルト球団史上最多の通算304本塁打を放ち、岩村の入団時にはミスター・スワローズの象徴的な背番号である1番を背負っていた池山は、憧れであり目標であり、兄貴と慕う存在でもあった。
その池山の引退試合は、今から15年前の2002年10月17日。神宮球場のスタンドをギッシリと埋め尽くした大観衆の前で、アキレス腱の痛みをこらえながら三番・遊撃でスタメン出場し、途中から一塁に移って試合に出続けた。延長10回裏、ナインが必死につないで回した最後の打席は空振り三振。それは「ブンブン丸」の異名にふさわしい、見る者の心を打つ魂のフルスイングだった。
だが、目の前では1点を争う緊迫した展開が続いている。その中で、大先輩の姿に自らを重ねることは、監督でもある岩村にはできなかった。
「やはり選手という前に、今は監督ですから。チームの勝利優先でやってるんで、フルスイングしてる場合じゃないです」
7回表に3対3の同点に追いつかれ、その裏の先頭打者として入った第4打席。「とにかく塁に出てほしい」という監督・岩村の期待に応え、選手・岩村はコンパクトな打撃で2-1からの4球目をセンター前に運んだ。
次打者の送りバントで二塁に進み、自らがホームにかえれば勝ち越し点になる。久しぶりにスタメンで試合に出続けていた岩村の体は、本人の言葉を借りるなら、そこで「悲鳴を上げた」。
「左のハムストリングが危ないなと思ってケアはしてたんですけど、そしたら右の内転筋に来たというね。1点を争う場面で肉離れをやったらって、そういう部分になると1回目のWBCを思い出しましたね」
2006年の第1回ワールド・ベースボール・クラシック、第2ラウンドの韓国戦。2回の攻撃で二塁に進んでいた岩村は、里崎智也(当時千葉ロッテ)の右前打で本塁を突こうとした際に、右太ももに肉離れを起こしてタッチアウトになっている。同じ轍を踏むわけにはいかなかった。
「追いつかれたが、選手を責めるつもりはない」
自らに代走を送り、日米で21年に及んだ現役生活にピリオドを打った岩村は、そこからは監督に専念。2死一、二塁から五番・高橋祥のライト前ヒットで本塁を狙った走者は憤死し、勝ち越すことはできなかったものの、ホープスは試合を引き分けに持ち込んで3年連続の地区チャンピオンシップ出場を決めた。
「同点には追いつかれましたけど、選手を責めるつもりは一切ないですし、こいつら(選手たち)が一番よくやってくれた。何よりもあのプレッシャーの中で耐えてくれたこと……(試合後の)セレモニーでしゃべる時よりも、(試合中に)実はベンチで泣いてました。あれを引き分けに持ち込んでくれたこと。最後の最後まで戦ってくれたことが、僕は嬉しかったです」
試合後の監督・岩村の弁である。
これがNPBであったなら、きらびやかなカクテル光線を浴びながら、1ケタ多い大観衆の前でより華やかな現役生活のフィナーレになっていたかもしれない。それでも秋の夕暮れの中、ホープスのチームカラーである赤に染まったスタンドを前に、ナインに胴上げされながら笑みを浮かべる岩村の姿を見ていたら、それはどうでもいいことのように思えた。
試合後の会見で「第2の岩村明憲を、これからは育てていきたいなというふうに思っています」と話した岩村。2足のわらじから解放された今、日本シリーズ、ワールドシリーズと日米で最高峰の舞台にも立った男が、持ち前の「何苦楚(なにくそ)魂」でどんな指導者になっていくのか──今後はそれを楽しみにしたい。