シリア:伝統産業の危機
2024年8月31日、アレッポ市旧市街のスーク(注:アラブの都市の伝統的な商店街)のうち4カ所の修復工事が終わり、スークの再開式典が行われた。アレッポ市といえば、政府軍とイスラーム過激派を主力とする「反体制派」との攻防の舞台となり、旧市街を含む市街地や社会資本の広範な破壊や人道問題が発生した所だ。ここで旧市街のスークの複数が再開したということは、多少なりともシリアの復興が進んでいることを期待したくもなるが、現実はそう甘くはないようだ。というのも、スークの店舗物件に入居することが予想/期待される、土産物屋やそれに産品を提供する伝統産業の工房や店舗が存亡の危機に立たされているからだ。
シリアには、多くの伝統産業がある。日本でも有名なオリーブ石鹸もそうだろうし、伝統的なアラブ菓子もその一つだろう。また、絹や綿の織物、ガラス、焼き物、モザイクや楽器に代表される木工品、金・銀・銅の各種金属細工も、土産物としてだけでなく日用品・高級家具として日本でも見かける機会があるはずだ。そうした諸産業が、現在消滅の危機に瀕している。危機の原因として、いくつかの理由を挙げることができる。第一は、紛争の結果シリア国内からは(徴兵や軍事的動員の対象となる)若年男性の国外流出が続き、産業の担い手どころか国内の需要でも深刻な減少が生じている。第二は、観光業の衰退である。本邦を含む主要国はシリアへの渡航を避けるよう勧告している国が多いようだ。また、現在シリアを訪れる外国人訪問者の大部分は、援助機関や報道機関の関係者や宗教施設への参詣者であり、観光客や語学の研修生・留学生、研究者のような、伝統産業の製品に興味を示す可能性が高い人々は極めて少ない。そして第三は、物資の輸入規制や関税政策に代表される、政府の政策の不備だ。もちろん、シリア政府や地方自治体は、冒頭のスークの再建や伝統産業のための販売促進催事を行うなどの対策を講じている。しかし、存亡の危機に瀕する伝統産業の業者たちから見れば不足が多く、2024年8月26日付『ワタン』(シリア国内の民間の日刊紙。海外報道では「親政府の」との枕詞を付されることが多い)は伝統産業の拠点の一つであるダマスカスのハンドクラフトセンター(注:もともとのダマスカス市内の施設は現在修復工事中で、センターは郊外に移転中)の所長のインタビューとして要旨以下の通り報じた。
それによると、楽器の弦の製造原料や、絹織物に使用する絹糸の輸入は禁止されており、原料が入手できない。また、モザイクの製造に欠かせない貝殻が税関の行政上宝石珊瑚や象牙のような希少物資と同様に扱われており、高額な輸入関税が課されている。その結果、業者が生産を続けるためには闇市場や密輸に頼らざるを得ず、生産経費の高騰と競争力の低下を招いている。伝統産業の業者の大半は零細業者で、体制の整った企業のように必要な物資を調達することができないのだ。また、原料が無ければ伝統的なデザインや型枠があっても生産ができないので、廃業する業者も相次いでいるようだ。記事によると、絨毯織の業者はシリア国内で2軒しか残っていないそうだ。このような状況で伝統産業を守るためとして、所長はインタビューで、必要物資を優先的に輸入できる物資に指定する、業者の開業や経営を円滑化するための法整備、融資の提供、国外市場の開拓などの措置を挙げた。
現在、シリアには紛争や弾圧に責任を負う個人や機関を「制裁」するための措置を逸脱し、社会資本の復旧・復興やシリア人民全体の経済活動を著しく困難にする経済制裁や封鎖が科されている。従って、シリアの伝統産業の維持や復興のために内外で何かしようとしても、すぐに限界や制限に直面する可能性が高い。しかし、安全地帯から「独裁政権」や「犯罪体制」の打倒や懲罰を叫び続けたとしても、そうした目的が達成するよりもはるかに早く人材や資本が枯渇・国外流出して数百年以上の歴史を持つシリアの伝統産業が滅び去っても構わないというのなら、いかにも無責任だ。紛争や経済封鎖がない環境下でも、伝統産業の継承や発展にはいろいろな困難があることだろう。シリアの事例を契機に、観光土産や物産の購入にあたり、商品の背後にあるいろいろな「物語」についても考えてみてはどうだろうか。