高杉晋作に翻弄された幕府軍…最後まで抵抗した小倉藩士が涙の選択!小倉城炎上の真相
北九州市のランドマーク・観光名所として、地元民から観光客にまで愛される小倉城は、1602年にキリシタン大名・細川忠興が5年の歳月を費やし築城しました。
そんな小倉城は約200年後の幕末、攘夷と開国の国論に巻き込まれ、悲劇の運命を辿ります。
・長州征討と富国強兵を進めた小倉藩
1864年と1866年の二度に渡って起きた「長州征討(長州戦争)」は、討幕思想の強い長州藩(現・山口県)を処分するため、江戸幕府が仕掛けた戦争です。
小倉城が巻き込まれたのは、1866年「第二次長州征討」でのことでした。
討幕のチャンス到来に燃える長州藩に対し、幕府軍として参戦した小倉藩(現・北九州市)は「幕府老中・小笠原長行」や「島村志津摩」を筆頭に出陣。
島村志津摩は養蚕の奨励で小倉織りの増産を図り、炭鉱・鉱山の開発を実施するなど小倉藩の発展に尽力した人物です。
産業で得た資金は銃や軍艦の購入に使用し、小倉藩の富国強兵を図りました。
・高杉晋作に翻弄される幕府軍
富国強兵にあたり、小倉藩の危険度を十分に承知していた長州側は、軍略知識の高い「高杉晋作」を総指揮官に任命しています。
そして、高杉晋作が江戸幕府に宛てた挑発文を送ったことにより、開戦。
これを機に幕府は長州藩領への進軍を開始しました。
一方、長州軍は関門海峡を渡り、門司を占領したほか、大半の幕府船に火を放ったのです。
船の焼失と門司占領により、長州藩領で戦う幕府軍の元に援軍が駆けつけることは難しくなりました。
起死回生の一手を図った幕府軍は、当時東洋一といわれた軍艦「富士山丸」を導入しますが、石炭運搬船に偽装した三隻の小舟から大砲を撃たれ撃沈してしまいます。
・小倉城炎上
幕府軍は機能不能となり、門司を占領された小倉藩だけが最後まで必死に抵抗しました。
しかし、幕府側の将軍・徳川家茂が死亡し、この訃報を知った小倉藩の指揮官・小笠原長行も持ち場を離れて逃走。
敗北を悟った小倉藩士は自ら小倉城に火を放ち、その隙に逃げ延びたといいます。
現在、天守が再現された小倉城内では小倉城炎上に関する資料のほか、築城を指揮した細川忠興に関する展示も充実していますので、気になった方は足を運んでみてください。