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校長権限を強化するために創造的な教育実践を犠牲にしていいのか、奈良教育大附属小の件は教育全体の問題だ

前屋毅フリージャーナリスト
あいち民研「緊急声明」。                    撮影:筆者

 管理強化の動きが、教育界でも加速している。奈良教育大附属小(以下、附属小)で起きていることも管理強化の一環であり、その意味では、附属小のことは日本の教育全体にかかわってくる問題である。

|大事なのは校長の権限なのか

 一部の授業が学習指導要領どおりの指導が行われていないとして、奈良教育大は「不適切」と指摘して、補填授業などの「回復措置」をとると発表した。同時に、「不適切」の背景には、校長権限が弱かったこともあるとしている。附属小の小谷隆男校長も、同校のホームページで「職員会議の決定権が強く校長の権限を制約していることなどに疑問を感じました」と述べている。

 そのため、職員会議の力を弱め、校長権限を強めるために、これまで附属小の教育実践を中心的に担ってきた専属教員を学外に出向させる人事をすすめようともしている。校長権限強化のために、学外からも高く評価されてきた同校の教育実践を犠牲にすることも厭わない姿勢なのだ。

 こうした附属小の姿勢に、強い批判の声がおきている。愛知県で教育の問題を考えていくために保護者や教職員、研究者など広い層の人たちが集まってつくられているのが、「あいち県民教育研究所」(あいち民研)である。

 そのあいち民研も、2月6日付で「奈良教育大学附属小学校をめぐる問題についての緊急声明」を発表している。そこで、「学習指導要領『違反』などといういわれのない攻撃を受けています」として、「同附属小学校で『みんなのねがい』に応える教育実践が引き続き行われることを強く願います」と訴えている。しかし、附属小の教育実践は危うくなっている。

 愛知教育大学名誉教授で、あいち民研の所員でもある折出健二氏に、奈良教育大附属小問題と管理強化の関係について聞いた。

|教員との対話を行うのが校長の役割

―― 今回の附属小の件で、まず感じられたことを教えてください。

折出 校長権限の強化、言い方を変えれば「校長ガバナンス」の強化を急ぎすぎて附属小教職員との信頼関係を壊した結果、生じた事案だという印象です。

 私は附属小の研究会に何度か参加しましたが、若い先生もベテランの先生も対等に話し合っていました。なにより、話し合いによる合意で学校の方針を決めていっているという印象でした。そういうことを、伝統的につくりあげてきているわけです。今回のことは、それを壊して校長ガバナンスを強めることが狙いなのではないかとおもえます。

―― 1月17日付の「お詫び」で附属小の小谷隆男校長は、「職員会議の決定権が強く校長の権限を制約していることなどに疑問を感じました」と記しています。

折出 小谷校長は昨年4月に赴任してきて、附属小が伝統的につくりあげてきたものを理解されていない。しかし教員の実践をみていれば、何を目的として、どのような子どもを育てようとしているのかわかるはずです。

 わからなければ、教員との対話を深めるなりして、理解する努力をするべきです。それでも教育課程あるいは学習指導の面で課題があるのなら、経営者ではなく教育者として問題提議して、話し合っていくべきだったとおもいます。そうすれば、今回のようなことにはならなかったはずです。

|「校長が絶対だ」と言っているわけではない

―― 学校教育法施行規則が2000年に改正されて、職員会議は校長の補助機関と規定されています。「補助機関」なら、「職員会議の決定権が強い」のは問題だと考えられませんか。

折出 その改正趣旨では職員どうしの「意思疎通、共通理解の促進、意見交換」の重要性を述べていて、「校長が絶対だ」と言っているわけではありません。校長の権限強化は謳っていますが、職員会議は校長の言うことを聞くだけの存在としているわけではありません。職員会議の位置づけを、従来の議決機関ではなくしただけのことです。教員の意見は聞かなければいけません。

 そして、校長も教育者のひとりです。教育者なら、学校づくりのための課題を提案し、意見を聞く姿勢があって当然です。自分の言うことに従わせるのがガバナンスではありません。

 教員との対話を深め、少数の意見も聞きながら、どのように合意形成をしていくか、そのためにリーダーシップを発揮するのが、本来のガバナンスです。

 今回の附属小のように、校長という立場で教員を従わせようとするやり方は、施行規則を歪めた捉え方だとおもいます。

―― 職員会議は校長に服従するもの、と捉えてはいけない、ということですね。

折出 施行規則の改正で、教員を管理職が統率するのが学校運営の先端であるかのように捉える傾向があるのは事実です。そこに最大の問題があると、私は考えています。

 上から教職員を統率するのでは、自分で問いを発し、自分で考え、実践していくという教員の基本的な自主性や自立性が弱められていきます。

 学習指導要領は「主体的・対話的で深い学び」を求めていますが、その実践者である教員が自主性や自立性を失ってしまっては、子どもたちへの実践で実現できるわけがありません。教員一人ひとりが違う意見をもっていていいし、その違いを話し合いながら共通点をあきらかにしていくことができてこそ、教員の職場です。

 それを、上の意見を押しつけて一本化してしまっては、学習指導要領の目指している教育さえできないことになります。「校長が絶対」の体制では、いっけん統率がとれているようでも、教員の心が閉ざされているだけの状態でしかありません。そういうなかで、創造的な教育課程の実践はできません。

|専門職としての教員の意見を無視したことが問題の根源

―― 校長の権限を絶対化して、教員の意見を無視するようなことがあってはいけない、ということでしょうか。

折出 子どもたちの教育のために、自分のいろいろな経験や能力を活用していくというミッションをもっているのが教員で、だから専門職です。専門職であろうとする思いのこもった意見なわけです。

 そうした教員たちの声に、校長は耳を貸そうとしなかった。学習指導要領を不動の基準のようにして、附属小の教育実践を「間違いだ、指導不足で問題だ」としてしまっています。そんな一方的な姿勢だから、教員も反発するわけです。

 校長が専門職である教員の意見に耳を貸そうとしなかった、そこに今回の事案の発端があります。

―― 附属小でやろうとしている校長権限の強化は、附属小がやってきた創造的な実践を壊すことになりかねないわけですね。

折出 附属小の創造的な実践を、全面的にではなくても、基本的に理解しようという姿勢が校長に必要なのではないでしょうか。教員と対話して、その実践に込められた思いをしっかり聞きとりながら議論していけば、附属小らしい創造的な実践を、次のステップに押し上げられたはずです。

 それをやらずに、校長権限の強化を優先したために、おかしなことになってきているわけです。

―― 校長権限の強化のために、附属小は大事な創造的な実践を犠牲にしようとしているようにおもえます。

折出 子どもの成長過程における課題も非常に多様化してきています。そうした現状のなかで、校長の権威だけを押し出すガバナンスが通用するわけがありません。教員と共同して考えていく関係が必要です。

 これを私は教職に不可欠な「共見の関係性」と言っていますが、教員の抱えている教育実践での課題や悩み、不安を共に見ながら、協力して解決していく姿勢が校長には求められています。そういう共見の立場でリーダーシップをとってこそ、校長の役割を果たしたことになります。

 そういう教育実践で重要なことを軽視して、校長が自分の権限強化ばかりを優先したことが、大きな問題だとおもいます。

フリージャーナリスト

1954年、鹿児島県生まれ。法政大学卒業。立花隆氏、田原総一朗氏の取材スタッフ、『週刊ポスト』記者を経てフリーに。2021年5月24日発売『教師をやめる』(学事出版)。ほかに『疑問だらけの幼保無償化』(扶桑社新書)、『学校の面白いを歩いてみた。』(エッセンシャル出版社)、『教育現場の7大問題』(kkベストセラーズ)、『ほんとうの教育をとりもどす』(共栄書房)、『ブラック化する学校』(青春新書)、『学校が学習塾にのみこまれる日』『シェア神話の崩壊』『全証言 東芝クレーマー事件』『日本の小さな大企業』などがある。  ■連絡取次先:03-3263-0419(インサイドライン)

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