伝説のアイドル水野あおいが空白20年を経てデビュー30周年「年齢を重ねてもイメージは崩したくなくて」
アイドル冬の時代と言われた90年代前半にデビューし、フリフリ衣装で王道路線を貫いた水野あおい。元祖・地下アイドルと呼ばれ2000年に引退し、伝説的な存在になっていた。2020年にネット限定で活動再開。オンラインイベントを重ね、昨年は23年ぶりに生のライブを開催した。そして、デビュー30周年の今年、24年ぶりのシングルを発売し、23日には記念の「お誕生日コンサート」を行う。冬の時代の活動から引退と復帰、さらに変わらぬアイドルへの想いまで語ってくれた。
歌ってみたら体が覚えていました
――昨年8月に23年ぶりのリアルライブをやってからは、完全に歌手モードに戻った感じですか?
水野 まあ、そうですね。人前に出るからには“水野あおいちゃん”として……という感じでやっています。
――2000年に引退して、20年を経た2020年にネットで活動を再開後、オンラインイベントでも歌ってはいたんですよね。
水野 顔は出さないけど、配信で歌う機会は定期的に設けていました。
――伸びやかな歌声は昔のままですが、20年のブランクを取り戻すために、かなりのことをしたんですか?
水野 正直、そんなに頑張ってはいません(笑)。それまでの日常の延長な感じです。たまに行っていたカラオケの回数が増えたくらいで、また歌うためにワッと練習したわけではなくて。ただ、20年ぶりに歌うあおいちゃんの曲を、たくさん聴くようにはなりました。
――それだけで20年の空白が埋まったんですか?
水野 歌に関しては、そんなに不安はなかったです。歌ってみたら体が覚えていたというか、歌詞もすぐ出てきました。もともと歌うことは好きだったので。でも、また人前に出ることには怖さがありました。
“あおいちゃん”を引っ張り出しました
――見た目的には、エステに通って仕上げたり?
水野 そういうことはしてなくて、仕上げてもいませんけど(笑)、ウォーキングくらいはしました。
――ライブをするための体力に関しては?
水野 振りを付けて歌う体力はなくなっていたかもしれません。動き回るという点では20年のブランクを感じましたし、年齢もその分、重ねましたから。体力を付けたいと思いました。
――ジムに行ったりしたんですか?
水野 やりたいんですけど、してないです。筋力がないから、ジムに行っても器具を使う運動とかできなくて、通わなくなると思っていたので。極力歩くようにした程度です。1日に3~4キロとか。
――具体的にしたことは、普通の生活にプラスαくらいだったんですね。
水野 そうですね。ただ“水野あおいちゃん”を引っ張り出してきた感じです(笑)。
――復活ライブは満足のいくものになりました?
水野 23年ぶりにライブハウスという空間に立って、お客さんがいらっしゃって。それまで人前に一切出てなかったので、本当に緊張してウワッとなって、お客さんの顔が見られませんでした。でも、一緒に歌って応援してくれて、こういう感じが楽しかったなと、だんだん思い出してきました。
――見覚えのあるお客さんも多かったですか?
水野 20年の時を越えてましたけど(笑)、わかる人もたくさんいました。
作っているわけでなく自分自身です
――復帰に当たって、昔の自分の動画を観たりもしました?
水野 観てます。YouTubeで“水野あおい”を検索して、振付をおさらいしています。
――その頃の自分を観ると、どう感じます?
水野 若くて、かわいくて、細いなーと思います(笑)。
――先ほどから“水野あおいちゃん”という言い方をされていますが、当時から自分のイメージするアイドル像を客観的に体現する感覚があったんですか?
水野 作っているわけでも、演じているわけでもなくて、自分自身なんですけど……。どう言ったらいいか、難しいですね。「こうしなければいけない」とか、そういうことは全然考えていませんでした。姪っ子がいて、今も私が普通に話したり、やっていることを「それ本気? わざとなの?」と言われることがよくあります(笑)。
――どんなことをしたときに?
水野 何だろう? たとえばゴミを捨てるときに「ポイしちゃう」とか、自分は自然に言っているだけなのに、「エーッ!?」と引かれています(笑)。
冬の時代だからこそ活動できました
――30年前にソロデビューしたときはどんな心境でした? 夢が叶いつつ、当時アイドルは下火で、しかも新しい事務所から。不安もなかったですか?
水野 その頃は高校生で、ただアイドル歌手になりたかったので、歌えることが楽しくて仕方なかったです。(ユニットの)フェアリー・テールでデビューする前、学園祭やイベントで歌っていた頃からずっと、人前に出て応援してもらえるのが素直に嬉しくて。不安とか怖いとかは一切なかったですね。
――実際にアイドル活動をしていても、冬の時代の厳しさは実感しませんでした?
水野 若さもあって、何も恐れずに歌っていました。当時思っていたのは、あの時代だったからこそ、私は活動できていたんじゃないかと。たぶんアイドル全盛期だったら、私は引っ掛かりもしませんでした(笑)。
――松田聖子さんが憧れで、日本武道館3DAYSを目標に掲げながら、銀座三越の屋上などで歌っている現実に落差を感じたりは?
水野 デパートの屋上で歌うのはアイドルっぽい感じがして、むしろ楽しかったです。
――自分でもそういうところでアイドルを見ていたんですか?
水野 あります。最初は記憶にないんですけど、小さい頃に池袋かどこかで、たまたま徳丸純子さんを見たと姉に言われています。大きくなってからは、中嶋美智代さんを見たりしました。
アイドルがチラシを配るのは違和感あります
――後になって“元祖・地下アイドル”と言われることは、どう受け止めてました?
水野 別に地下ではなかったかなと思っています。屋上で歌っていたので(笑)。私は普通にアイドル歌手だったので、特に地上とか地下とか考えていませんでした。デビュー前は「プレアイドル」と呼ばれていた気がします。今は地下アイドルと呼ばれる方たちがいっぱいいますよね。渋谷駅の前で「アイドルです」とチラシを配っているのを見て、私のイメージからすると「それはアイドルじゃない」と違和感を覚えました。
――アイドルはもっと華やかなものだと?
水野 何だろう? 手が届きそうで届かない、キラキラした存在? 昔だと聖子さんのように、テレビの歌番組で歌って踊るのがアイドルというイメージでした。
――あおいさんの時代には、テレビの歌番組自体がなくなっていましたが。
水野 デパートの屋上でも、歌がメインなのがアイドルというか。
――ステージでファンとの距離は近くても、自分でチラシは配らないと?
水野 近いけど近くないんです(笑)。会いに行けて、ふれ合いはできても、そこに見えないベールがある空気感? それは大切にしたいとずっと思っていました。
フリフリ衣装で自分の芯は持っていました
――当時のフリフリ衣装も、あおいさんの中ではアイドルに必須のものでした?
水野 そうですね。ステージの衣装は自分でデザインして、作ってもらうことが多かったです。着たかったのは80年代のようなかわいい衣装で、自分が考えるアイドルらしい感じにしてもらいました。
――流行を取り入れようとはせずに。
水野 私は94年にソロデビューして、時代はどんどんカッコイイ系になっていて。私はフリフリのアイドルになりたかったけど、そういうのはちょっと違う目で見られていました。97年くらいになると、フリフリの服自体がお店で売られなくなっていたんです。それでちょっと普通っぽい服も着ましたけど、自分のベースでなりたかったのはかわいいアイドルで、変わりませんでした。
――そこは時代がどうであろうと、揺らぐことはなく?
水野 はい、そうですね。
――当時のあおいさんはおとなしいイメージがありましたが、芯は強かったんですね。
水野 そうかもしれません。許容範囲は広いですけど、ちゃんと自分の芯は持っていると思います。
「こんなこともやってた」と自慢できます
――『天使のU・B・U・G』の1日ホームレス体験や、『ダウンタウンのごっつええ感じ』で東野幸治さんとプロレスをしたのは、どういう心持ちでした?
水野 最近プロレスの映像を観たら、すごく投げられてましたね(笑)。あれはとても楽しかったです。当時フリフリの格好でアイドルと呼ばれる人は少なかったから、珍しい人という扱いで、本来自分がやりたい活動ではなかったです。でも、テレビに出ることによって、私を知ってくれた人もいたので。ありがたかったし、普通はできない経験ですから。パイを顔にぶつけられて生クリームまみれになったのも、今思えば良かったです。
――プロモーションのために仕方なく……ということではなくて。
水野 そうではないですね。今になって「こんなこともやっていたんだよ」と自慢できますから(笑)。
フェイドアウトはイヤだったんです
――総じて、冬の時代の最中のアイドル人生も、あおいさんにとっては幸せだったわけですね。
水野 本当にそうです。1日警察署長もやれましたから(笑)。そういうアイドルっぽいことを、いろいろできました。
――2000年にアイドルを引退したのは、どう決めたんですか?
水野 25歳になるというのと、フェイドアウトがイヤだったんです。そういうアイドルの人たちがいっぱいいて、当時も「あの人、どうしたんだろう?」と調べたりもしていました。それで、自分はちゃんとライブができるうちに、けじめを付けて引退したいと思ったんでしょうね。2000年というキーワードも、区切りとして大きかった気がします。
――悩んだ末に決断したというより、ここで幕を下ろしたいと。
水野 2000年以降も続けたとしても、ライブができなくなるかもしれない。お客さんが来なくなって尻切れトンボになるより、引退コンサートでさよならしたい想いが強かったです。
定期的にエゴサーチはしていました
――引退してからは普通の生活をしていたそうですが、何年か経って、やっぱり物足りなくなったりはしませんでした?
水野 なかったと思います。ファンの皆さんは11月の私の誕生日や引退した3月に集まって、昔の映像を観たりしていたんですね。毎年の誕生日に、色紙にお祝いメッセージを書いて届けてくれていました。
――どこに届いたんですか?
水野 実家に。ご存じだったんでしょうね(笑)。私は実家を出ていましたけど、親に「また送られてきたよ」と言われていました。そういうことを何年経ってもやっていただいて、ありがたい気持ちはずっとありました。かと言って、自分がまた表に出ようとは思わなくて。
――ファンの人の動向はSNSとかで見ていたんですか?
水野 定期的に“水野あおい”でエゴサーチはしていました。昔は2ちゃんねるもよく見ていたり。そういうのは大好きなんです(笑)。
――気分を害されるような書き込みはありませんでした?
水野 あっても私は別に平気なんです。「そう思っているんだ」というくらい。「今何している」みたいな書き込みもあって、「どこのお店で働いてる」とか全然違うよと思っていました(笑)。
今のアイドルのことは何もわかりません
――一般人として、その後にAKB48、乃木坂46と盛況になったアイドルシーンは注目していました?
水野 していません。グループがいっぱいあるのは知ってましたけど、何もわからないです。
――大人数のアイドルグループは馴染めない感じですか?
水野 たぶんそうです。でも、その頃に自分が15歳とかだったら、きっとAKB48に入りたくてオーディションを受けていただろうなと思います。
――アイドルに限らず、音楽にあまり触れてなかったり?
水野 よく知らなくて、カラオケに行っても流行りの曲はわからないから、いつも80年代や90年代初めのアイドルの曲になっちゃいましたね。10代の頃で止まっています(笑)。
――どんな曲を歌っていたんですか?
水野 今も変わらなくて聖子さんとか、アイドルでなかったらドリカム(DREAMS COME TRUE)さんとかですね。
20年も覚えてくれてることに感謝したくて
――2020年にネット限定で活動を再開したのは、カメラマンで後輩の森下純菜さんのマネージメントもしていた大山文彦さんの働き掛けがあったそうですが、どんな経緯だったんですか?
水野 ちょうど引退から20年で、ツイッターでみんなに「ありがとう」と言おうかと思っていて、何で大山さんに繋がったのかは覚えていません。連絡先も一切知らなかったので。大山さんには「個人でツイッターをやるとDMがいっぱい来ちゃったりするから、公式アカウントを開こう」と言われました。
――もともと自分からファンに伝えたいことがあったんですね。
水野 10年経っても20年経っても、エゴサーチをすると水野あおいの話が出てきて。そんなに長い間覚えてくれていることに、リアクションをしたいと思っていました。大山さんには「歌っちゃえば?」とも言われましたけど、人前に出る自信はなかったので、顔出しなしの配信イベントをやらせてもらいました。
また人前に出るのは一大決心でした
――最初の話に戻りますが、昨年8月にまた人前で歌うことにしたのは、心境の変化があったんですか?
水野 特に何かあったわけではないですけど、配信で歌って、やっぱり楽しいと思いました。また人前でライブをやることは一大決心でしたけど、周りの勢いに押されて決まってしまった感じです(笑)。求めてもらえるなら……というのが一番でした。
――昨年は11月にも、かつて恒例だった「お誕生日コンサート」を行いました。そこはまた違った感触がありました?
水野 8月は勢いでワーッと出て、めちゃめちゃ緊張したまま終わりました。大山さんが10月に亡くなってしまって、11月はバタバタでチケットが何枚売れているかもわからない状況になって。とにかく無事に開催して終えることしか、考えられない感じでした。
――先日発売された24年ぶりのシングル『大切な宝物』も、レコーディングが延期されたんですよね。
水野 本当は去年の10月に録るはずでした。それが延びて、ライブの練習でCD用でない歌入れだけはしました。そのまま宙ぶらりんになっていたのを、今年の夏にレコーディングしたんです。
――CDレコーディングも24年ぶりで、カンはすぐ戻りました?
水野 そんなに戸惑いはなかったです。昔と違って技術が発達して、録った歌の音程を変えられるのはすごいなと思いました。
――そういう技術がなかった時代にしっかり歌を聴かせていたあおいさんには、必要なかったでしょうけど。
水野 まあ、そうだったかもしれません。
今着ていいの?というくらいかわいい衣装で
――『大切な宝物』の歌詞には、あおいさんが入れたかったフレーズもあるとか。
水野 最初に大山さんが(作詞・作曲の)田村信二さんに発注したときは、2000年にラストシングルとして発売した『Love Song』のアンサーソングみたいな形で……とお願いしていて。田村さんからは「20年間の気持ちを、ひと言でもいいからくれると助かります」と言われました。それで打ち合わせの帰りの電車の中で携帯にメモして、わりとスラスラ出てきて、歌詞っぽい形にして送りました。
――どの辺があおいさん発信の言葉ですか?
水野 「ずっと待っててくれてありがとう」が一番伝えたかったことです。「最後の青い海 キラキラ輝いてた」とか、結構そのまま採用されました。
――今回の「お誕生日コンサート」のセットリストは、どんな感じで決めたんですか?
水野 自分でセレクトはしていません。当時からのマネージャーさんたちに決めていただきましたけど、定番から始まって自分のイメージとだいだい同じでした。
――衣装はどうなるんですか?
水野 今の私が着ていいんですか? というくらい、かわいいです(笑)。ファンの方や私も含めたみんなが思っている水野あおい像は崩したくなくて。実際の水野あおいは年齢を重ねているので、これでいいのかな? という想いは自分自身にあります。でも、周りのみんながいいと言ってくれたので、着ちゃいます(笑)。
――伝説のまま、ステージに現れるわけですね。
水野 昔のままの“水野あおい”です。
誕生日は健康を感謝する日になりました
――誕生日に対する想いは、やっぱり昔とは変わりましたか?
水野 今になると、健康でいられることに感謝する1日です(笑)。変わらず元気ですけど、コロナ禍もあったし、年齢的には突然何があるかわかりませんよね。病気をせず、ごはんをおいしく食べられて、ちゃんと眠れる生活ができていることがありがたいです。
――健康面で気をつけるようになったこともありますか?
水野 塩分を控えめにする、みたいなことですか(笑)? そういうのはあまりないですね。気をつけようと意識はしつつ、食べたい欲求が勝ってしまう感じです。夏はアイスクリームをよく食べましたし、今日も朝からパンケーキでした(笑)。
――それだけ食欲旺盛なのは、逆に健康の証かも。
水野 焼肉も好きですけど、最近は良い肉はちょっとでいいです。脂身とか刺しとか、いっぱい食べたいと思いながら、そんなに食べられなくて。1枚か2枚で物足りないくらいがいいと実感しています。それが大人になったということかなと(笑)。食べたいものを食べたいだけ食べていた若い頃と違って、おいしいものを少しずつ食べるようになりました。
悔いが残らないように楽しみたいです
――30周年コンサートの後の展望はありますか?
水野 ノープランです(笑)。ファンの方が来てくれるかどうかだけなので。世の中的にも未来がわからない中で、コンサートができるなら、楽しんでやりたい気持ちはあります。今の年齢になってできるのであれば、目いっぱい悔いが残らないようにしたいです。
――ステージに立つときは永遠にアイドルの心意気ですか?
水野 そういられたらいいなと思います。復帰して今までのライブでは、昔から応援してくれている人も、引退後に私を知った人も来てくれたので。初めて私を生で見る人にも楽しんでいただきたいです。
――今の若い人たちは、YouTubeで昔の映像も今の映像も同列に観ているので、伝説通りのあおいさんを見せたいところ?
水野 伝説ということもないですけど(笑)、そんなステージができるように頑張らないといけないですね。
Profile
水野あおい(みずの・あおい)
1975年11月20日生まれ、埼玉県出身。1993年にアイドルグループ、フェアリー・テールでデビュー。1994年にシングル『恋なのかな???』でソロデビュー。2000年に引退後、2020年にネットで活動再開。シングル『大切な宝物』が発売中。
『大切な宝物』
水野あおいデビュー30周年コンサート
11月23日 県民共済みらいホール
第1部:デビュー30周年SPトーク&ミニライブ~また会えたね~
第2部:お誕生日コンサート2024~おやゆび姫Again~