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【九州三国志】謀略に散った名将!城井鎮房とその不屈の魂

華盛頓Webライター
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天文5年(1536年)、豊前国の名門・城井氏の嫡男として生まれた城井鎮房

その名は後世まで語り継がれるものの、彼の人生は波乱に満ちたものでした。

鎮房は早くから領地管理を任され、父・長房が大内氏に属していた影響で、大内義隆の配下となります。

しかし、大内氏滅亡後は大友義鎮(宗麟)に従い、義鎮の妹を正室に迎えることで家の安泰を図りました

一字拝領により「鎮房」と改名した彼は、家督の運営に尽力しながらも、耳川の戦いで大友氏が大敗を喫すると、薩摩の島津氏にも属するなど巧みな処世術を見せました。

豊臣秀吉が九州征伐を開始すると、鎮房は一旦その傘下に入りますが、自身は病を理由に参戦せず、息子・朝房に少数の兵を預けただけで、秀吉の不信を買います。

天正15年(1587年)、秀吉から伊予国への移封と伝家の宝「小倉色紙」の引渡しを命じられると、父祖伝来の地と家宝を守るためこれを拒絶

その結果、豊前6郡を与えられた黒田孝高と敵対する道を選び、城井谷城を急襲して奪回します。

ゲリラ戦や天険の城を活かした戦術で黒田長政率いる豊臣軍を苦しめましたが、持久戦の末に降伏を余儀なくされました。

降伏後、鎮房は中津城での酒宴に招かれますが、これは孝高が仕掛けた謀略でした

城内に入った鎮房は、その場で謀殺され、家臣たちも討たれます。

さらに、城井谷城に残った父・長房も黒田軍に殺害され、嫡男・朝房も肥後国で暗殺。

娘の鶴姫は侍女13名と共に磔刑に処され、一族はほぼ滅亡しました

その無念は後に「城井鎮房の亡霊」として語り継がれ、黒田家を祟る噂が広まったのです。

中津城には鎮房の亡霊が出現し、黒田孝高はこれを鎮めるため、城内に城井神社を建立。

以後、黒田家は後継者問題に悩まされ、黒田騒動や家系断絶などの不幸が「城井氏の祟り」とされました。

逸話も数多く残ります。

鎮房の娘・鶴姫を祀る宇賀神社や、家臣たちの血を浴びて赤く塗られた中津の合元寺の壁、さらに秘伝の弓術「艾蓬の射法」が断絶した話など、鎮房の生涯と城井氏の運命は地域の伝説として語り継がれています。

敗北の将でありながらも、その生き様と魂は今も歴史に深い影を落としています。

Webライター

歴史能力検定2級の華盛頓です。以前の大学では経済史と経済学史を学んでおり、現在は別の大学で考古学と西洋史を学んでいます。面白くてわかりやすい記事を執筆していきます。

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