Yahoo!ニュース

誤用の指摘は親切?必要悪?差別?:日本の英語オブザイヤー、 #泣いちゃう英語 、おかしな英語美術館

寺沢拓敬言語社会学者
Engrish の検索結果

ここ最近、英語の誤用に関するニュースがいくつか飛び交っています。

たとえば、先週、「日本の英語オブザイヤー2022」なるものが、「日本の英語を考える会」によって発表されました。

「日本の英語オブザイヤー2022」が決定~和製英語部門は「ライバー」、「伝わらない英語」部門はHumishige Naka body~]

また、同じ週、語学アプリのDuolingoが「おかしな英語 美術館」というイベントを開催し始めました。

語学アプリ「Duolingo」、誤訳を集めた「おかしな英語 美術館」を開催 | ICT教育ニュース

「おかしな英語 美術館」はその名前から明らかな通り、英語の誤用を展示するというもの。「日本の英語オブザイヤー」はタイトルからはわかりづらいですが、それと同じ趣旨のようです。つまり、今年を象徴する日本人の英語の誤用を発表しているわけです。

間違った英語を晒すのは正当?悪趣味?人種差別?

英語の誤用のコレクションとして有名なものに、"Engrish" と呼ばれるネットミームがありました(ウィキペディアの記事)。最近では、ツイッター上で繰り広げられる #泣いちゃう英語 というハッシュタグ・ムーブメント(?)もここに含められるでしょう(ちなみに「日本の英語を考える会」は、#泣いちゃう英語 タグで盛り上がっている人たちと重複するようです)

こうした「間違った英語のコレクション」に嬉々として乗っかるひともいれば、悪趣味だと眉をひそめる人もいます。または、下品であることは認めつつ必要悪だとして正当性を主張する人もいます。

一方で、抽象的に「英語の誤用の指摘」と一括りすることで満足してしまうと、「間違っているものをわざわざ訂正してくれたんだからむしろ感謝せよ」などと雑に擁護したり、逆に、「英語母語話者が訂正してくるのはすべて人種差別だ」などと大味な批判につながり、不毛な話になりそうです。

なぜなら、抽象的には同じ「誤用の指摘」であっても、その行為が行われる文脈によって「この指摘はとてもありがたい」から、「まあセーフ」「悪趣味」「どう見ても人種差別、逆にOKだと思った理由を教えて欲しい」までグラデーションがあります。(この辺は、ハラスメントの線引きと同じですね)

そもそも英語であれ何語であれ、他者の言葉遣いを指摘するという行為は、誰が、どんな文脈で、どういうトーンで、何を指摘するのかについて切り分けるポイントが多数ありますそのポイント次第で、指摘行為への評価は180度変わることもあるということです。

以下、誤用の指摘を評価するうえで区別すべき論点を整理してみます。

間違った言語使用を指摘するとき、その行為の許容度を左右する条件

1. 訂正する側の言語背景(X語の母語話者か否か)

一般的に、X語のネイティブスピーカーが「ここ間違ってるよ」と言うのと、努力してX語を身につけた人が「ここ間違っているよ」と言うのとでは、傲慢さに関する評価がかなり違います。ネイティブスピーカーの場合は、いっそうの慎重さが必要になるでしょう。

2. 訂正される側の言語背景

訂正される側、つまり「誤用」をしたと見なされた人がX語のネイティブスピーカーか、ネイティブではないにしても日常的にX語を使用している人の場合も、より慎重さが必要でしょう。訂正した側の勘違いということも大いにあるからです。

また、1. および 2. の論点は、人種差別の判断と密接に絡むという点でも慎重さが必要になります。

もちろん、英語ネイティブであることと人種は1対1対応するものではありませんが、「白人教師が非白人生徒にものを教える」という構図が多いこともまた事実です(たとえば日本の学校教育現場や英会話学校にいる「ネイティブ」英語教師では、白人が明らかに多数派です)。

この行為の人種差別性は、たとえば、「日本語と英語が融合、「新言語」はいかにして誕生したのか - CNN.co.jp」 という記事でも以下のように指摘されています。

欧米では Engrish について、非ネイティブの英語話者を嘲笑することを意図した日常的な人種差別とみなされることが多い。

欧米が本当にこの状況にあるのかはやや疑問ですが、マイクロアグレッションが積極的に問題化されつつある昨今の状況を考慮すると、傾聴に値する意見であることは事実でしょう。

3. 訂正する側・される側の社会的地位

訂正した人とされた人との関係性次第でも、許容度は変わります。

この点はきわめて複雑で簡潔な説明はなかなか難しいので、ひとつだけ例をあげるとすると、教師と生徒の関係でしょうか。具体的に「教師 - 生徒」の関係が存在しない間柄だったとしても、教師と見なされる人が、生徒・学生と見なされる人に指摘した場合、その行為はそうでない場合よりも許容されやすいと思います。

4. 誤用によって伝達面で重大な問題が生じるかどうか

意味不明な言葉遣いに対して「変ですよ」と言うことは正当だと思われやすいでしょう。一方、「言いたいことはわかる」程度の「誤用」であればあるほど、「意味はわかるのに、なぜわざわざ訂正するの?意地悪なの?」という反応を呼び起こしやすいはずです。

5. 誤用によって倫理面・品格面で重大な問題が生じるかどうか

たとえ意味は明確だったとしても、単語の選択が不適切だったりすると、意図せずに差別的あるいは下品な表現になることがあります。このようなケースへの指摘ならば、もちろん許容されやすいでしょう。

6. 公共的媒体か、半公共的な媒体か、個人的媒体か

公共的媒体とはたとえば道路標識や官公庁の掲示です。

また、半公共的な媒体は企業広告など、必ずしも公益性のあるものではないけれども不特定多数が目にするものです。

一方、個人的媒体はそれ以外の様々な媒体を指します(たとえば店員による独自の張り紙等)

公共的媒体は、より正確かつ適切な言語使用が期待されるので、「間違っている」と指摘することの正当性は高いでしょう。

一方、個人的なものであればあるほど、場合によっては「弱い者いじめ」のようにとられかねないので、慎重な指摘の仕方が要求されます。

7. 指摘・訂正のトーン

これは言わずもがなですが、嘲笑的に、あるいはぶっきらぼうに指摘すれば許容度が大いに下がります。

8. 個別的な指摘か、一般論的な指摘か

「こういう○○を見かけることがありますが、よくないですね」と一般論的に指摘するならば許容されやすいですが、「あなたのこの○○はよくないですね」と個別的に指摘する場合、より多くの配慮を必要とします [*1]。

もっとも、これは、言葉の誤用に限らず、およそあらゆるタイプの「他者への指摘」にあてはまるでしょうが。

9. 「誤用」をした側が、訂正されることにどれだけ同意しているか

英語マッチョの人が意外と忘れている論点がこれです。

私たちは、訂正を望んでいるのであれば、「改善につながった。ありがとう」とむしろ感謝しますし、場合によっては報酬さえ支払います。しかし、望んでいなかったり、とくに頼んでいない場合には、むしろ「ありがた迷惑」と受け止められます。[*2]

最悪の場合、傲慢な行為扱いされたり、指摘者の属性次第ではマンスプレイニングとかホワイトスプレイニングとさえ見なされかねません。もっとも、これも、言語使用に限りませんね。

英語学習マッチョは「英語学習マゾ」、つまり、英語の間違いを指摘されると喜ぶ人であることも多いでしょうから、この辺は麻痺しているかもしれません。しかし、英語母語話者までもが「みんな訂正されたら喜ぶはず」みたいな意識を持っていたらちょっと異常ですが…。

10. 改善のための具体的行為をしたか、単なる「晒し上げ」か。

ソーシャルメディアに特有の論点かもしれません。改善のために具体的な行動をしていた場合には、建設的な指摘として許容度はあがるでしょう。

また、具体的な行動をするというのは、「誤用」をした当事者に反論や弁明の機会を与えることでもあるので、より誠実な行為と見なされるでしょう。

一方、ソーシャルメディア等に載せるだけで何もしない場合には、当事者に弁明の機会を与えず、ただ「晒し上げ」ているだけと見なされるので、許容度は下がります。

11. 訂正者の公的性格

仮に同じ「ちょっと趣味が悪いなあと思える行為」であっても、やっているのが個人であれば「個人の趣味」として許容されやすいでしょうが、公人だったり、公益性をうたう組織(例、教育企業)の場合には、許容されにくくなります。

12. 指摘する目的

高尚な目的(啓蒙とか注意喚起とか)から行われた指摘であれば許容されやすく、利己的な目的(例「英語ができる自分アピール」)や嘲笑のための指摘は許容されにくいのは自明な話です。

もっとも、本人が「これは啓蒙だよー、嘲笑じゃないよー」と言っているだけで、「はい、そうですか」と自動的にセーフになるわけでもありません。

前述の 1.-11. の論点に照らして、受け手が本当に啓蒙だと思ったかどうかが重要な論点です。

つまり、啓蒙ならば啓蒙らしいトーンや文脈が必要だ、ということですね。これも、ハラスメントの線引きをめぐる論点と同型です。

#泣いちゃう英語、「おかしな英語 美術館」

上記の点を考慮すると、#泣いちゃう英語 のハッシュタグ・ムーブメントや「おかしな英語 美術館」はどう評価できるでしょうか。

まず、#泣いちゃう英語 については、具体的にどのような誤用を「泣いちゃう」扱いしているかによりますが、総合的には結構危ういなと思います。

その最大の原因が、日本語の「泣いちゃう」に嘲笑のニュアンスがある点です。

「〈笑っちゃう〉であれば嘲笑だけれど、〈泣いちゃう〉なのだから嘲笑ではない」と関係者が弁明していたのを見たことがありますが、多くの人が、これはおかしな理屈だと思うのではないでしょうか。

もちろん「笑っちゃう」が嘲笑に用いられることは自明なことですが、同じく、「泣いちゃう」も嘲笑に使われます。これは、日本語母語話者でなくとも、日本語にある程度馴染みがある人なら容易にわかると思います(そもそも、多くの言語で、「泣く」系の言葉は「笑う」の意味にも使えるのではないでしょうか)

一方、「おかしな英語 美術館」の嘲笑のニュアンスはやや微妙ですが、それでも、「本来は美術館に展示されないようなものを、『美術館』とわざわざ命名して、展示する」というところに皮肉の響きを感じます。少なくとも、「作品を鑑賞してもらう」ではなく「"作品"を見世物にする」のニュアンスがあることを疑う日本語使用者はいないでしょう。

もし、本当に「間違った英語への注意喚起・啓蒙」などを目的だと主張するなら、「泣いちゃう」や「美術館」のような名称を変更することを強くおすすめします。

なお、名前以上に、「おかしな英語 美術館」が危ういのは、Duolingoという公益性がある(少なくとも公益性を企業理念のひとつにしている)教育アプリ企業がこの企画を主催していることです(→上記11の論点)。

#泣いちゃう英語 にせよ「おかしな英語 美術館」にせよ、もちろん、「誤用の指摘」が実際に行われた個別の文脈を見ないと、最終的な評価はできません。(それこそが、本記事の趣旨です)。

しかし、嘲笑のニュアンスが大なり小なり底流しているので、ここに「母語話者が指摘する」「伝達面で問題ないものをとりあげる」「ソーシャルメディアに晒すだけ」「個人の言語使用をあげつらう」等のイエローカードが積み重なっていくと、累積退場ということになるでしょう。

異文化コミュニケーション

この記事では、12の論点を抽出するなどして、ものすごく理屈っぽく書きました。

ここまで読んで「何を当たり前のことを」と思った人は多いと思います。そのとおりだと思います。多くの日本語使用者(母語話者には限りません)は、こうした論点を直感的に計算して「許容可/許容不可」の判断をしているからです。

逆に、以上の話が、(理屈はともかく)直感的に理解できない人の場合、異文化コミュニケーションの実務家・コンサルタント(※)としてはなかなか難儀なことになるのではないかなと思います(※もっとも、研究者なら問題ありませんが)

*1: この論点は @itani0314 さんからご教示頂きました。https://twitter.com/itani0314/status/1462050865745838084

*2: この論点は、@wtrych さんからご教示頂きました。https://twitter.com/wtrych/status/1462044737418846214

言語社会学者

関西学院大学社会学部准教授。博士(学術)。言語(とくに英語)に関する人々の行動・態度や教育制度について、統計や史料を駆使して研究している。著書に、『小学校英語のジレンマ』(岩波新書、2020年)、『「日本人」と英語の社会学』(研究社、2015年)、『「なんで英語やるの?」の戦後史』(研究社、2014年)などがある。

寺沢拓敬の最近の記事