追悼 モハメド・アリ
「I ain’t got no quarrel with those Viet Congs. No Viet Cong ever called me nigger」(俺にベトナム人を殺す理由などない。ベトコンは、俺をニガーとは呼ばなかった)
ボクシング史上、最高の輝きを放ち続けたモハメド・アリは、そう言ってベトナム戦争への徴兵を拒否した。当時、彼は25歳。1960年に開催されたローマ五輪で金メダリストとなり、プロに転向。以後、29連勝中であった。
20戦目に世界ヘビー級タイトルを獲得し、まったく危な気なく、9度の防衛に成功していた。29戦のうち、判定までもつれたファイトは6度のみ。その行く手を阻むものは見られそうもなかった。
1967年3月6日、アメリカ合衆国国民選抜徴兵大統領審査委員会は、満場一致でアリの入隊を決める。だが、世界ヘビー級チャンピオンは、その決定に首を振ったのだ。
「ルイヴィルでは黒人たちが犬のような扱い方をされているというのに、何故、国家は俺に軍服を着て、1万マイルも離れたところでベトナム人に爆弾や銃弾を浴びせろ、と言うのか? もし、戦争に行くことで2200万の仲間に自由と平等をもたらすのなら、俺を徴兵するまでもない。明日にでも入隊してやるさ。しかし、俺は国の法律、あるいはアラーの定めに従わねばならない。自分の信念に従った際、失うものは何もないんだ。我々ブラックは、400年も牢獄で暮らしてきたのだから」
国家に背いた反逆者としてアリはベルトを剥奪され、3年7ヵ月のブランクを作る。プロデビューから引退まで、アリを支えた名伯楽、アンジェロ・ダンディーが「この空白時こそ、アリがボクサーとして最も成長する時期にあたっていた。よって彼は、ピークを持てなかった」と語ったほどの代償を払わされた。
モハメド・アリには、己を貫かねばならない理由があった。1942年1月17日にケンタッキー州ルイヴィルで生まれたアリは、言うまでもなく、アメリカ合衆国における黒人の立場を味わいながら育った。
アメリカ合衆国に生きる黒い肌のほとんどが、15世紀に始まった「奴隷船」で、アフリカ大陸から強制連行された哀しき民の末裔である。アフリカ人たちは、新大陸の南部においてプランテーションの労働力として家畜のように使われた。彼らに宛てがわれた小屋には、冷暖房はもちろん、水道さえ通っておらず、片道半時間、一時間と歩いて、水をくみにいかねばならなかった。
アリは看板描きの父親を持ち、一般的なボクサーよりも貧困を味わわずに済んだが、黒い肌の意味を十二分に理解していた。それでも彼は、ローマ五輪の直後、金メダルの値を信じていた。勝利の証を首から下げ、意気揚々と故郷に戻ったアリは、友人とともに白人専用レストランに入り、料理を注文する。
「自分は星条旗を背負って戦い、世界一となった。もはや肌の色でとやかく言われることなどないだろう」と信じたが故の行為であった。
ところが彼は店員から、「ウチにはニガーに出す食べ物などない。出て行ってくれ」と、告げられる。自身が首から下げたゴールドメダルに輝きがないと悟ったアリは、オハイオ川に金メダルを投げ捨てる。傍らで泣き叫ぶ友人に対して、アリは語った。
「こいつは偽物だったのさ。今度こそ、本物の栄光ー世界ヘビー級タイトルを獲ってみせる!」
アリが世界ヘビー級タイトルを獲得した1964年に公民権が、王者として2殿防衛に成功した翌1965年に投票権が、黒人に与えられる。彼が自身を「モハメド・アリ」と呼ばせるようになるのは、世界チャンピオンとなってからである。それまでは、本名のカシアス・クレイであった。イスラム教徒であることを公言し、改名したのだ。
1965年、アメリカ軍は旧ソビエト連邦共和国や中華人民共和国の支援を受け、共産主義化に向かう北ベトナムを攻撃した。簡単に勝てる相手とふんで空爆を開始したのだが、勝利を挙げることは適わず、泥沼に向かっていく。
多くのアメリカ人がベトナム戦争の無益さを嘆いた。後に、アリの言葉は正しかったと認識される。自身の信念を貫き戦争反対を唱えたアリは、最高裁で無罪となり、リングに復帰する。アリの言動は潔く、鮮やかだった。
「俺はいつも神の存在を信じた。自分の能力だけでは、けっして成し遂げられなかったこともある。でも、最後には神が俺を勝利者としてゴールに導いてくれたのさ」
アリのカリスマ性は、己の信じる道を突き進んだからこそのものである。
心よりご冥福をお祈りいたします。