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『紅白』内村光良の涙の理由、雑誌取材などでかつて語っていた西田敏行さんへの想い「私の青春でしたから」

田辺ユウキ芸能ライター
『第75回NHK紅白歌合戦』で追悼企画がおこなわれた西田敏行さん(写真:Rodrigo Reyes Marin/アフロ)

お笑いコンビ・ウッチャンナンチャンの内村光良が12月31日放送の『第75回NHK紅白歌合戦』に審査員として出演。

特別企画「追悼・西田敏行さん」で、2024年10月17日に亡くなった西田敏行さんの代表曲「もしもピアノが弾けたなら」(1981年)を田中健、松崎しげる、武田鉄矢、竹下景子が演奏した際、それを見届けた内村光良は、司会の有吉弘行から「審査員の内村さんは、西田さんが憧れの存在だったそうですが」と感想を求められると、涙ぐみながら「はい、あの…。みなさんの思いが届いたんだと思います。日本中の方に愛されていたんだなと思います」と口にした。

内村光良がテレビ番組で泣く姿を見せるの珍しいことから、Xでは「ウッチャンの涙はちょっともらい泣きするな。あまり泣く人じゃないし」などの驚きの声があがったほか、「まさかあの松崎しげるさんが歌の途中で涙で声が詰まるなんて… そりゃウッチャンも感極まるわ」、「西田敏行さんの話を振られ、涙で声が詰まるウッチャンの言葉と表情を受けてグッと堪える表情を見せた有吉さん印象的」といった感想も投稿された。

「西田敏行さんの『池中玄太80キロ』は私の青春でしたから」

それにしてもなぜ、内村光良は「追悼・西田敏行さん」で涙を流したのか。

実は、内村光良にとって西田敏行さんは「この人と共演してみたい、もしくは共演してみたかった」という役者の一人だった。書籍『内村光良ぴあ』(2016年/ぴあMOOK)で内村光良は、その質問に対してこのように答えている。

「もちろん高倉健さん。本当にお会いしたかった。それから西田敏行さん。『池中玄太80キロ』は私の青春でしたから」。

1980年4月放送開始のテレビドラマ『池中玄太80キロ』(日本テレビ系)シリーズは、西田敏行さんにとって初めての民放連続テレビドラマ主演作だった。同作は、夫に先立たれた女性と結婚するも、彼女が急逝してしまい、血の繋がらない3人の娘たちを育てることになったカメラマン・池中玄太の奮闘を描いたもの。そのユニークなドラマタイトルは、撮影当時、西田敏行さんが実際に体重80キロだったことが由来だと言われている。

1980年といえば、内村光良は熊本県立人吉高等学校に入学し、自主映画『飛んでやる』を制作・上映。もともと映画監督志望だった内村光良は、その夢に向かって歩み始めたときだった。さらに2年時に『戦争愛してます』、さらに3年時にも『男物語』を作っている。そんな映画少年だった内村光良にとって、俳優として頭角をあらわし始めていた30代の西田敏行さんは、まさに「憧れの人」だったのだ。

冠番組『誰かがやらねば!』のコントでも池中玄太刑事というキャラが登場

好きが高じて、1990年代に放送された冠番組『ウッチャンナンチャンの誰かがやらねば!』(フジテレビ系)のコント「ナン魔くん」にも、内村光良が演じた池中玄太刑事というキャラクターが登場したほど。

内村光良は2012年放送開始のコント番組『LIFE!~人生に捧げるコント~』(NHK)の関連取材でも、コントで共演してみたい人について「西田敏行さん」「小さいときからファン。あの芝居を見てみたい。2人で侍の格好とかしたい」と熱望していたほど(出典:MANTANWEB 2012/8/17(金))。さらに11月26日放送の特集番組『みんなのベスト紅白』(NHK)でも、『紅白』に4度出演した西田敏行さんの歌唱シーンが印象深いと明かしていた。

ただ結局、内村光良は、西田敏行さんとの共演はかなわなかった。『第75回NHK紅白歌合戦』での意外な涙の真相は、さまざまな想いが頭をよぎったからではないだろうか。

芸能ライター

大阪を拠点に芸能ライターとして活動。お笑い、テレビ、映像、音楽、アイドル、書籍などについて独自視点で取材&考察の記事を書いています。主な執筆メディアは、Yahoo!ニュース、Lmaga. jp、リアルサウンド、SPICE、ぴあ、大阪芸大公式、集英社オンライン、gooランキング、KEPオンライン、みよか、マガジンサミット、TOKYO TREND NEWS、お笑いファンほか多数。ご依頼は yuuking_3@yahoo.co.jp

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