「貧困」を見つめるまなざし ~我々は何を貧しいとみなしているか:その壱
しばらくぶりの更新です。今回は「貧困」について考えてみましょう。考えるといっても、理屈っぽい話ではなく、簡単なところから始めてみたいと思います。また、掲載可能な文字数の関係で二回に分けて掲載します。
「貧しいって何かね?」
貧困と聞いて、何を思い浮かべるでしょうか。ある人は、発展途上国での飢餓状態を想起するかもしれません。ある人は、日本の戦中戦後の経済混乱期における生活や戦災孤児・未亡人を思い出すかもしれません。また、ある人は金融危機後に実施された年越し派遣村に集まってきた人たちのように不安定な雇用環境にいる人たちに思いを寄せるかもしれません。
改めて考えてみると、何をもって貧しいとみなすか、というのはなかなか厄介な問題です。現在の日本で発展途上国での飢餓状態と同じような状況におかれている人は、極々少数でしょうし、日本国内で貧しいと思われているような人であっても、その所得額や食事から得られる栄養は発展途上国の人たちよりも豊かである可能性は高いでしょう。
では、日本国内で貧しいと思われている人たちに対して、「世界の貧しい人たちをご覧なさいよ、あなたはまだ恵まれている方なのよ」と言い切って良いものでしょうか。そんなわけないのはなんとなく判るわけですが、では、なぜそう言い切ってはダメなのか、と問われると、考え込んでしまうかもしれません。
「貧しさ」は時代とともに、社会とともに
社会保障史の講釈を垂れるつもりはないですし、私はその筋の専門家でもないわけですが、何を以て貧しいとみなすかは、貧困研究上の重要な論点であり続けてきました。
歴史上、国家、政府が直接に貧しい人たちの生存を保障し始めたのは16世紀、絶対王政のイギリスであったとされています。ただし、これは政府による温情的な政策として始まったというものではなく、治安維持の為に開始されたものでした。そのため貧しい人たちには非常に苛烈な処遇が与えられました。制度の開始当初は、貧民に鞭打ちがなされるようなこともありましたし、衛生的にも劣悪な強制収容所に隔離されて過ごすというのが常でした。政府が貧民を保護するといっても、こうした懲罰的な扱いをうけることになっていたのです。そして、こういった制度で保護の対象になる貧民というのは、孤児であったり、障害や疾患、もしくは老齢などが理由で労働することがそもそも不可能な、つまり放置しておけばそのまま死に至るような最貧民でした。つまり、この時代はそういう生きるか死ぬかの瀬戸際におかれた人たちを、「貧しい」と見做していたわけです。ある意味、明瞭な定義であるといえるかもしれません。
そして時代は産業革命を経て、資本主義が興隆していきます。19世紀末、欧州諸国のマクロ経済は目覚ましい発展を遂げますが、同時に、劣悪な労働環境と貧困に苦しむ人たちが多数出現しました。そういった社会現象をうけて、この頃、C. ブースやB.S. ラウントリーといった人たちが、初めて科学的な統計調査による貧困研究に着手します。その際、どこから人々を貧しいと見做すかが重要な論争のポイントとなりました。なぜなら、統計的に貧困層の規模を定量的に計測しようとすれば、何らかの基準を厳密に定める必要があったからです。
当初は、週給がいくら以下なら貧困、という数値的な基準を設けたりましたが、当然ながら、その根拠は何か、という批判が投げかけられました。その基準額の設定次第で、貧困の規模は如何様にでも変化してしまうからです。そこで、生存に必要なカロリーから逆算してそれに必要な食費や生活費がいくらかかるか、そしてそれに足る所得を得られているかどうかで、貧しさの基準を定めようという試みもなされました。このような貧しさの所得基準は貧困線(Poverty Line)と呼ばれています。勿論、所得だけで「貧しさ」を測って良いのか、資産や所得移転などをどう考慮するか、などの批判は多々ありますが、貧困線は現在でも重要な指標とみなされています。
現代に入ると、世界経済はさらなる発展を遂げていきます。貧しいとは言いながらも、生きていくには足りる人たちも増えていきます。貧困は、少なくとも先進国の中では、自然に解決するかのような錯覚が社会を覆っていきました。しかし、社会を見渡せば、母子家庭や、望んでも十分な教育が受けられない子供など、困っている人たちが数多く存在する。豊かさと貧しさが共存する不可思議な時代を迎えたわけです。
そんな中、イギリスのP. タウンゼントという社会学者が豊かな社会の中での貧しさについて重要な発見をしました。タウンゼントの議論を、極簡単に要約すると、『皆が当たり前と考えているような行為を実行できないという人たちが存在しており、かつその割合はある所得水準を下回ると急速に高まる』ということになります。例えば、自宅にお風呂があるということは日本人として当たり前のことであるという認識が共有されているとしましょう。ところが、ある所得以下の世帯が住んでいる部屋では、浴室の設置率が急速に低下します。とすると、この所得以下の人たちは、社会の中で当然のことと思われていることが享受できていないという意味で、「貧しい」ということになります。タウンゼントはこれを相対的剥奪(そうたいてきはくだつ、Relative Deprivation)と呼んで、現代社会における貧困の重要な特徴として位置付けたのです。
もちろん、相対的剥奪にも議論の必要はあります。何をはく奪の指標として選択するかで、貧困とされる所得水準はかなり異なります。また、国・社会が異なれば選ぶべき指標は異なってきます。上では浴室を例えとして示しましたが、自動車の保有ではどうでしょうか?都心では富裕層しか車を持ちませんし、公共交通機関が高度に発達した国と、自家用車を重用している国では全く事情は異なります。スマホではどうでしょうか?あえてガラケーを使う人たちも数多く存在します(私もその一人です)し、教育上の配慮から子供にスマホを与えない人もいるはずです。また、食習慣を利用して「牛肉を週一日以上食べるか否か」という指標を作ってみても、宗教的理由から牛肉を食べない人や、(日本の高齢者に多いかもしれませんが)肉よりも魚を好むという人が多い社会ではあまり役に立ちません。
そこで、現在では、簡便な方法として、その社会における世帯人員数調整後の一人当たり手取り所得(等価可処分所得と呼びます)の分布で、下から数えても、上から数えてもちょうど真ん中にいる人の金額(中位値と呼びます、平均ではありません)の半額を貧困線として置いて、それを下回るか否かで貧困と定義する相対的貧困(Relative Poverty)という定義が用いられます。現在の日本では、おおよそ125万円が相対的貧困線であり、これを下回る人は16%です(平成22年度国民生活基礎調査)。
相対的貧困線は共通の基準で測るので、指標の恣意性を気にすることなく国際比較にも使用できるなど利点がありますが、もちろん批判もあります。相対的貧困線は所得分布の形状に依存するので、各国毎に異なる水準に決まります。つまり、絶対額で見れば、ある国では貧困層としてカウントされる人も、別の国の基準でみれば貧困ではない、ということもあり得ます。そもそも、なぜ中位所得の50%の水準なのか、という論点もあります。このようにいろいろと課題はありつつも、簡便な手法としての利点は捨て難く、また、少なくとも先進国間を比較する際には、欠点も大きな問題とはならないと考えられているため、各国政府や国際機関での指標として採用されているわけです。
貧困の概念はその後、以上のような議論からさらなる発展を見せて、ノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・センによる潜在能力アプローチや、その実践である人間開発指数(HDI, Human Development Index)などへとつながっていくのですが、それらの説明は稿を改めることにしましょう。
「貧しさ」への感度
さて、話をタウンゼントの相対的剥奪の議論に戻しましょう。相対的剥奪の指標として何を選択するかで、貧困とみなされる所得水準は異なるという話は既にしました。しかし、「何か」を買えない、「何か」をできない、という視点で貧困を見たとき、その「何か」として選ぶ事柄で、話は随分と異なってきます。例えば、「週に一度、近所で外食をする」という基準と、「年に一度、海外旅行へ行く」という基準では、明らかに【できなくなる】所得の境界線は異なってくるはずです。
しかし、これを逆手にとって考えてみると、別の論点を提示することができます。それは、「我われ日本人が、どの程度の水準を貧しいと見做しているか」という貧困に対する根本的な視点です。つまりこういうことです。相対的剥奪という概念を考えたとき、議論の土台となるのは、その国の住民たちが、国民としてこれは享受できて当たり前、と誰もが思っている事柄が、実行できない、という社会の認識です。しかるに、その国民が、「享受できて当たり前」と考えている事柄とは一体何なのか、を問うことで、その社会がもっている貧困観を逆説的に浮かび上がらせることができるわけです。
何が買えて、何が実行できることを当たり前であると、その国民の中で合意されているのか、という点から貧困観を明らかにする方法を「合意基準アプローチ」と呼びます。これは、国立社会保障・人口問題研究所の研究部長を務めておられる阿部彩先生が、六年ほど前に出版されてベストセラーになった著作、『子どもの貧困―日本の不公平を考える』で紹介されて、広く世に知られるようになった手法ですが、阿部先生は、子供のいる世帯に焦点を当てながら、アンケート調査で日本人が持っている貧困観を浮き彫りにされました。(ちなみに最近、阿部先生はご著作の続編ともいうべき『子どもの貧困II――解決策を考える』という著作も発表されました)
阿部先生が実施されたアンケートは
「現在の日本社会において、12歳の子供が普通の生活を送るために、以下の事柄は必要だと思いますか?」
という質問に対して、
- 「希望する全ての子供に、絶対に与えられるべきである」
- 「与えられた方が望ましいが、家の事情(経済状況など)で与えられなくてもしかたがない」
- 「与えられなくてもよい」
- 「わからない」
の四択で回答するものであり、問いかけられる項目としては、生命に直結するものから、余暇に関連することまで、25の様々なものがとりあげられています。
ここで重要なのは、選択肢として「希望する全ての子供に、絶対に与えられるべきである」と回答している人たちの比率です。なぜなら、日本の社会が、この項目については子供の必需品であると強く合意している事柄であって初めて相対的剥奪の指標たりえるのであって、あった方が望ましいけれどもお金がなければ仕方ない、という弱い合意では、その社会における貧困観を明確化することができないからです。ここで、阿部先生のご著作から、その結果を引用させていただくと、以下のとおりになります。
結果を眺めてみると、なるほど、項目ごとに人々が日本人として当たり前な必需品と考えている合意度合いには差があることが分かります。皆さんも、ご自分の実感と照らし合わせてみると面白いでしょう。しかし、阿部先生のご主張で非常に印象的なのは、このように我々が考えている「国民としての当たり前」が、実は、外国との比較で見た場合、かなり貧相な合意なのではないか、という問題提起でした。阿部先生は、英国での同種の調査の結果を提示して、似通った項目について比べてみても、日本と英国の差異が非常に大きいことを指摘したのです。参考までに、再び阿部先生のご著作から、英国での調査を引用すると以下のようになります。
社会保障制度発祥の地であり、永らく貧困についての論争を積み重ねてきた英国と、戦後の高度経済成長の中で、矢継ぎ早に社会保障制度を拡充させてきた日本との差と言えるのかもしれませんが、なかなか興味深い差異です。これを素直に受け取れば、イギリス人と比べる限り、日本人の考える普通の生活というのは相当に低い水準におかれており、それゆえに、貧困と呼ぶにふさわしいと感じている所得水準もかなり低いものとなっていると言えます。多くの日本人が、生活保護を受給している人たちに冷ややかな眼を向けることが多いのも頷ける話です。そして、これらの差異がなぜ生まれるのか、ということは、それはそれとして面白いお題なのですが、ここではそれらに深入りせず、阿部先生のご著作や、本邦でご活躍されている貧困研究のスター研究者の方々の議論に譲ることとしたいと思います。
【その弐に続く】