【光る君へ】正反対だから惹かれあった?陰キャな紫式部の結婚生活とは?(相関図・家系図)
NHK大河ドラマ『光る君へ』。世界最古の女性文学『源氏物語』の作者・紫式部(演:吉高由里子)と、平安時代に藤原氏全盛を築いた藤原道長(演:柄本佑)とのラブストーリー。
実は史実からすると、「ありえない」シーンが散見される本作。でもそれだけに、視聴者にとって夢のシーンが次々と登場する。
たとえば「紫式部と清少納言(演:ファーストサマー・ウイカ)が親友同士だったら…」「紫式部と定子(演:高畑充希)が顔を合わせていたら…」など。それが同時にかなった前回はまさに「神回」!
一条天皇(演:塩野瑛久)の寵愛を一身に受ける中宮・定子への嫉妬から、女房である清少納言がほかの女御(側室)たちから嫌がらせをされる描写も興味深い。『源氏物語』の読者ならば、光源氏の母・桐壺更衣へのいじめを思わず思い浮かべるだろう。
別々の道を歩むと決めたまひろ(紫式部)と道長の今後はどう描かれるのだろうか。さらに気になるのが、まひろの結婚生活についてである。
実際のドラマの内容を想像してワクワクしながらも、紫式部の結婚生活について「史実とされていること」を押さえておきたいと思う。
※あくまでも「史実」ではあるが、ドラマのネタバレでもあるので注意!
◆父の不遇で「行き遅れ」になった紫式部
◎10年ぶりに昇進、官職を得た為時
父・為時(演:岸谷五朗)は約10年ぶりに官職を得た。越前守(えちぜんのかみ)として、越前(現在の福井県)に赴任することになったのである。
六位から従五位下に昇進した為時。急なことで、赤い束帯(そくたい=文官の勤務服)を親戚の藤原宣孝(のぶたか・演:佐々木蔵之介)に借りて参内する。
(当時の装束についてはこちらに詳しい。【光る君へ】なぜ黒尽くし?平安装束のなぜ?を解説!(図解付)3/30(土))
さりげなく描かれているが、当時の法律(律令制度)では六位は貴族(※)ではなかった。緑の束帯を着る六位の人々にとって、五位の赤い束帯は憧れだったのである。(※広義では六位も「下流貴族」と呼ばれた。四位と五位は中流、三位以上は上流(公卿と呼ぶ))
ここまでの為時は不遇だった。花山天皇の時代に式部丞・六位蔵人(天皇の秘書)の職に就いたものの、天皇の退位とともに散位(さんい)になっていたのである。散位とは、位階はあるが官職がないこと。要するに無官(無職)になったのだ。
◎不遇の時代、為時の年収はどれほどだったのか?
無官とはいえ、位階(正六位)による収入があるため、無収入ではなかったようである。『日本人の給与明細』(山口博・著 / 角川文庫※)によれば、当時の六位の収入は、現代の金額換算で年収約680万円。現代の一般的な家庭ならば十分な収入である。
しかし、使用人を雇い、息子を大学に行かせて…となるとどうだろうか。さらには為時の祖父・中納言兼輔の代からの広大な屋敷の維持費もかかる。貴族の体面を保って生活するためには、それなりの収入が必要だったのだろう。
◎結婚適齢期と父の不遇が丸被りした不幸
何より父親の地位や収入が重要なのは、娘の縁談である。当時の一般的な貴族の結婚の形は、男性が女性の家に婿入りし、女性の実家が婿のバックアップをするものだった。
『光る君へ』の中でもまひろの結婚相手を宣孝が探してくるシーンがあった。宣孝がまひろに薦めたのは藤原実資(さねすけ・演:秋山竜次)。「一本筋の通った方」だと為時もその人柄は認める。
しかし「身分が違いすぎる」と為時もいうように、実資には「鼻くそのような女」と日記に書かれてしまう。酷な話であるが、経済力のない女性の扱いはそんなものだったのである。
紫式部は970から978頃の生まれだと推定されている。真ん中をとって974年生まれだとすれば、為時が散位だったとき式部は13歳から22歳。まさに当時の「適齢期」を父の散位と共に過ごしたのである。
しかしそれも過去の話。このたび従五位となって、為時の年収は倍以上の1,400万円に跳ね上がった(※同書による)。めでたい限りである。
◆父の昇進で、いよいよ結婚?
◎紫式部と夫は「またいとこ同士」
さて、ご存じの方も多いと思うが、ここで今回一番のネタバレを書くと、紫式部の夫となるのは、前述の藤原宣孝である。
宣孝は紫式部の「またいとこ」にあたる。ちなみに、黒木華演じる源倫子も同様に2人にとってまたいとこである。親戚といえども倫子の家と式部の家の身分差は歴然としているが、宣孝の家も式部の家より格上である。
紫式部の家は曽祖父までさかのぼると公卿・中納言であるが、宣孝の父は権中納言、曽祖父は右大臣の家柄なのだ。
紫式部と主要人物との関係を図にしてみた。公卿(三位以上の高官・上流貴族)のみ青で位階・官職を記入しているので参考までに。
宣孝の生年は伝わっていない。父の従弟である為時との年齢は近く、紫式部とは親子ほどの年の差だったと伝わる。ドラマ内では、宣孝はまひろの裳着(もぎ)の腰結(こしゆい)を務めた。
裳着とは女性の成人の儀式で、はじめて「裳」を身に着ける。裳を着せる役は腰結といい、親族の権力者や長老が勤める大切な役割だったのだ。宣孝はドラマ内のコミックリリーフ的な役割を担っている。それとは別に、為時一家にとってかなり「重要人物」の側面もあると描かれているのだ。
しかし、まひろにとって宣孝は頼りになる親戚のおじさんでしかないだろうし、宣孝にとってもまひろはあくまでも親戚の賢いお嬢ちゃんだっただろう。まひろの結婚相手を探す際にも、為時は「宣孝どののご子息は?」とは尋ねても「宣孝本人」とはいわなかった。
そんな2人がどうやって結婚という展開に?と日本中の平安好き、歴史好きは見守ってきたことと思うが、先々週、そして今週も、2人の関係に動きがあった。
◎少女から女になったまひろにときめく宣孝
990年に筑前守に任ぜられて筑紫(現在の福岡県)に赴任した宣孝が、995~996年頃帰京。5年の間に女盛りとなったまひろに「打てば響くよい女になった」「色香がある」などと目を見張っていいながら「まひろに買ってきた」と紅を差し出す。
紅をさしたまひろに「思った通りじゃ」とご満悦。これにはさすがに父の為時も「おや?」と怪訝な顔を見せる。
(5/19の放送では、為時は寝たふりをして、楽しそうに酒を酌み交わす2人を薄目を開けて見ていた。堅物そうに見えて、意外と鈍感でもないのである)
考えてみれば、(道長を除けば、)まひろの身近な男性は宣孝しかいないのである。身分もそこそこつり合い、なんといっても勝手知った間柄。お互いが納得するならば、これ以上の縁組はないといっていいかもしれない。
◎「気づけばいつもそばにいた人」と結ばれる、少女漫画的展開
この「気づけばいつもそばにいた人」「ずっと見守ってくれていた人」と結ばれるのは、少女漫画の王道パターンでもある。少女漫画味の強い今回の大河ドラマにはピッタリのシチュエーションなのだ。
少女漫画や女性向け小説やドラマのヒロインは、ほかの男性と恋して傷ついたのちに、一番身近で自分を見守ってくれていた人との愛に目覚めて結ばれるケースが多い。
最近では朝の連続テレビ小説『虎に翼』である。花岡との微妙な恋愛に破れた寅子は、猪爪家に書生として一緒に暮らし、ずっと彼女を見守って来た優三と結ばれた。(モデルとなった三淵嘉子さんは実際に書生の男性と結婚しているので、これは「史実」である)
『光る君へ』のまひろと宣孝がどのように結ばれるか?はまだこれからのお楽しみ。「ラブストーリーの名手」大石静氏の脚本だけに期待大だ。
◆宣孝と紫式部の結婚生活
◎藤原宣孝とはどのような人物か?
さて、ここからは史実に沿って2人の関係をひもといてみる。
藤原宣孝は円融天皇(演:坂東巳之助)の代末期から花山天皇の代に、蔵人(天皇の秘書)兼 左衛門尉(さえもんのじょう:武官の官職)の職に就いていた。花山天皇の代には為時の同僚(蔵人)だったのである。
花山天皇の退位と同時に為時同様、蔵人の職は解かれた。しかし左衛門尉の職は残っていたため、為時のように散位(役職がなくなること)とはならなかった。
その後、筑前守に任ぜられて筑紫に赴任。このたび京に戻ってきたのである。
史料に残る宣孝はかなり「派手好き」で「陽キャ」(明るい性格(キャラクター))な人物だったようである。そのキャラクターを象徴するように、ドラマの宣孝はたびたび派手な黄色い装束で登場。こげ茶などの地味な装束をまとった為時と対比するように描かれている。
◎『枕草子』に描かれた宣孝の酔狂な性格
宣孝の人柄が伝わるエピソードが「御嶽詣(みたけもうで)」である。奈良の吉野・金峯山(きんぷせん)の御嶽神社に参詣(さんけい)する際は、簡素な「白装束」を身に着けるならわしになっていた。
ところが宣孝は、「皆と同じ格好では埋もれてしまう」と、ど派手な「黄色い装束」で参詣。同様に派手な装束を着た息子を同行させたと伝わる。
このようすはドラマ内でも描かれたので、記憶にある人もいるだろう。当時の多くの人々をドン引きさせた中、「お似合いです」というまひろと宣孝は確かに波長が合うかもしれない。
宣孝は御嶽詣の約半年後に筑前守の官職を得たことから、ドン引きした人々も「宣孝の言った通り、ご利益があった」と噂したという。
この話は清少納言『枕草子』の「あはれなるもの」に記載がある。清少納言の口調は「これはないわー」。紫式部は『紫式部日記』で清少納言を批判しているが、その理由の一つが「自分の夫の悪口を書かれたから」ともいわれているのだ。
◎紫式部が陰キャになった理由
明るい宣孝に対して、一方のまひろ(紫式部)はどうか。なぜかまひろの衣装は宣孝同様明るい黄色が多い。しかし、実際の紫式部は、かなりの「陰キャ」(根暗な性格)だったといわれている。
『紫式部日記』には彼女のうつうつとした「悩み苦しみの多い」「辛い」人生観がたびたび書かれている。
紫式部のいう「辛い人生」とはどのようなものか?
賢く生まれてどんなに努力しても、女に出世の道は開かれておらず、貧乏貴族の娘には、まともな結婚の話も来ない。
当時としては遅い結婚をしたものの彼女は正室ではなかった。また宣孝は紫式部と結婚して3年ほどで流行り病にかかり急死してしまう。娘と2人残され、生活のために式部は中宮・彰子のもとに宮仕えに出るのである。
確かにこれは、前向きに生きる意志をそがれる不運のオンパレードだといえるかもしれない。
ただ彼女は夫を失った辛さを紛らわすために『源氏物語』の執筆をはじめたとされている。彼女の不幸がなければこの大作は生まれなかったのである。
◎血の涙を流した、と手紙に朱を塗る50男
紫式部の人生は、実はほとんど知られていない。宣孝の前に結婚していたという説もあるが、推測の域を出ない。
式部が親子ほども年の違う宣孝をどう思っていたかも、想像するしかない。しかし、遺された歌などから推測する結婚生活は、それなりに幸せなものだったようである。
宣孝は式部にこんな歌をよこしている。
「あなたへの想いが報われないので、わたしは血の涙を流しています」
それだけでなく、手紙に点々と朱を散らせてきたというのである。
2人が結婚したときの年齢は、式部が20代後半で宣孝が40代後半だと推測されている。50にもなろうという男が、若い女相手に点々と朱を紙に塗り付ける様子を想像すると、失礼だが笑ってしまう。
おそらく式部も、宣孝と一緒にいるとつい笑ってしまったのだろう。宣孝といるときには束の間、自身の「辛い人生」を忘れることもできたのではないだろうか。
2人はまったく違ったタイプだったが、だからこそ、うまく行っていたのかもしれない。
(イラスト・文 / 陽菜ひよ子)
◆主要参考文献
フェミニスト紫式部の生活と意見 ~現代用語で読み解く「源氏物語」~(奥山景布子)(集英社)
ワケあり式部とおつかれ道長(奥山景布子)(中央公論新社)
紫式部日記(山本淳子編)(角川文庫)
日本人の給与明細 古典で読み解く物価事情(山口博)(角川ソフィア文庫)