【京都市上京区】足利義満の野望が渦巻く! 相国寺の変貌とは
京都観光で外せない金閣(鹿苑寺)、銀閣(慈照寺)。
実はこの2つの寺院は、ある禅寺の末寺にあたることをご存知でしょうか?
その禅寺こそ、今回ご紹介する相国寺。
室町幕府3代将軍・足利義満によって創建された、臨済宗相国寺派の大本山です。
現代の同志社大学周辺に広がっていたという広大な寺域を持つ相国寺は、義満の権力と禅宗に対する深い関わりを象徴する存在でした。
相国寺建立の舞台裏
相国寺は、義満が大臣の位に昇った頃に造営が始まりました。
義満の官位=左大臣の唐名「相国」から寺の名前がついたとも言われています。
しかし、その道のりは平坦ではありませんでした。
財政難、住民の立ち退き、資材不足…など困難が続きます。
平家の「福原遷都」以来と嘆かれたり、木材不足を嘆く落書が書かれたりも。
これらの困難を乗り越え、相国寺は完成しました。
…と思いきや、義満はその後も、相国寺の扱いをコロコロ変えていきます。
義満の思惑?相国寺の変遷
義満は、相国寺で顕密仏教の儀式を盛大に行うなど、禅宗と顕密仏教を共存させたりと、かなり自由な発想で寺院を運営していました。
絶頂期の義満は、まるで法皇のように振る舞い、自らを権力構造の頂点に位置づけたのです。
ところが、義満が北山殿(金閣)に引っ越すと、状況は一変。
顕密仏教の儀式は北山殿で行われるようになり、相国寺にあった「八講堂」も北山殿に移築されてしまいました。
義満にとって相国寺は、自らの権威を示すための「舞台装置」だったのかもしれません。
義満の死後
義満が亡くなると、相国寺は将軍家歴代の位牌を安置する寺院となり、五山禅宗界を統括する役割を担うようになりました。
義満の壮大な計画や政治的意図とは異なる形で、相国寺はその後も京都の重要な寺院として存在し続けています。
中世相国寺の遺構復元の案内も!
同志社大学の良心館近く(烏丸通)にあります。
京都観光で金閣や銀閣を訪れる際は、ぜひ相国寺にも足を運んでみて下さい。
室町幕府の栄華と、義満の野望を垣間見ることができるかもしれません。
参考文献:
大田壮一郎「京の武家政権と禅宗寺院」『京都の中世史5 首都京都と室町幕府』(吉川弘文館、2022年)
拝観時間:
10:00~16:30(最終受付16:00)
場所:
相国寺
京都府京都市上京区今出川通烏丸東入相国寺門前町701
京都市営地下鉄烏丸線「今出川駅」下車、徒歩約8分