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手にすれば気分は大名人? 扇子は将棋指しの必須アイテム

松本博文将棋ライター
2008年、名人戦で「宝蔵」と揮毫した扇子を手にする羽生善治挑戦者(撮影:筆者)

 2月6日。東京、大阪の将棋会館においてC級2組順位戦9回戦がおこなわれました。唯一無敗で走る高見泰地七段(26歳)は田中寅彦九段に勝利。9勝0敗でC級1組昇級を決めました。

 高見七段は今年度始めにはタイトルホルダーだったことを考えれば、昇級は順当な結果にも見えます。一方で、それだけの実力の持ち主である高見七段がC級2組に8期も在籍したという事実からは、順位戦の厳しさが伝わってきます。

 高見七段は石田和雄九段の門下です。

 第3期叡王戦準決勝・丸山忠久九段戦に臨む際、師匠の石田九段から贈られた扇子をじっと見つめる写真が印象的でした。

 為高見泰地君 祈活躍 九段石田和雄

 扇子にはそう揮毫されていました。この扇子を見るだけで、石田九段と高見七段の師弟関係がどれほどのものかが伝わってきそうです。

 扇子は棋士の必須アイテムの一つと言えます。どのような扇子を携えて対局に臨むのかはもちろん自由で、そこには棋士の個性が反映されます。

 扇子について触れるのは、将棋の記事や観戦記における定跡の一つです。

 扇子に何が書かれているのかは、様々です。

タイトル戦の記念扇子(撮影筆者)
タイトル戦の記念扇子(撮影筆者)

 たとえばタイトル戦などの記念に作られる、両対局者が一字ずつ書いたもの。多くの棋士、女流棋士が名を書いているもの。詰将棋が書かれたもの。何も書かれていない「白扇」もあります。

 対局中に手にされる扇子でポピュラーなのは、棋士が何か一つの言葉を揮毫したものです。

 レジェンド羽生善治九段は、自身で揮毫した扇子を手にすることがほとんどのようです。

 近年のアマチュアの将棋大会を見たところ、筆者の印象ではやはり、羽生九段の扇子がずっと一番人気だったように思われます。そこに揮毫されているのは「一歩千金」「泰然自若」「玲瓏」といった言葉です。

 多くの棋士が手にしてきた扇子としては、大山康晴15世名人(1923-92)のものが多いかもしれません。代表的な言葉は「一歩千金」「忍」「助からないと思っても助かっている」などです。

 「助からないと思っても――」は大山15世名人が後援者から贈られた言葉で、受けの達人である名人は生涯の座右の銘としていました。対局中、苦しくなった際には、確かに扇子に書かれた大山名人の言葉を見るのがよさそうです。

 元奨励会三段で、現在は神奈川新聞で健筆をふるっている高野悟志さんは、次のように書いています。

私は修業時代、大山康晴15世名人の「助からないと思っても助かっている」と書かれた扇子を愛用し、苦しい局面で眺めて自分を奮い立たせていた。しかし扇子で強くなるわけでもなく、「助からないと思った通り助からない」ことも多かった。

出典:高野悟志「神奈川新聞」2017年6月18日

 そうなんですよね・・・。扇子を持っただけでは、本当はなかなか、名人のようにはいきません。それでも、気分だけでも、少しは違うのかもしれません。アマチュアの方にも、大山扇子は変わらず人気を誇るようで、大会でもよく見かけます。

 大山15世名人の孫弟子にあたる佐藤天彦九段は、大師匠が揮毫した「夢」という扇子を用いていました。

 一方で直弟子の行方尚史九段は、師匠と天下を争った、升田幸三九段が揮毫した「強がりが雪に轉(ころ)んで廻(まわ)り見る」という扇子を持っていたことがありました。

 他には中原誠16世名人、米長邦雄永世棋聖の扇子を持つ棋士も多く見られます。佐藤康光現九段は今よりも若い頃、どのような扇子を持っていたでしょうか。

仕掛けの機をうかがう微妙な段階で、佐藤は中原誠名人揮毫の「無心」と書かれた扇子を何度も開閉しながら38手目を封じた。

出典:速報記事:王位戦七番勝負第3局▲谷川浩司王位-△佐藤康光五段「北海道新聞」1990年8月10日朝刊

対局室では佐藤がメガネ越しに相手陣を鋭くにらむ。手にしているのは米長が名人を獲得したあとに揮毫(きごう)した「惜福」の扇子。昨年も使っていたからか、親骨がかなり疲れている。一方の谷川は自分の扇子を手にしながら視線を時折、ヒザ元に落とす。

出典:加古明光:名人戦七番勝負第2局▲佐藤康光名人-△谷川浩司九段「毎日新聞」1999年5月1日朝刊

 佐藤康光現九段が手にしていた扇子は、20歳五段には中原誠名人の「無心」。28歳八段、29歳名人の時には米長邦雄九段(後に永世棋聖)の「惜福」。それぞれ「どういう心境でその扇子を持っていたのだろう」と推測してみるのが「観る将棋ファン」の定跡かもしれません。

 扇子選びにおける「奇手」の例としては、三浦弘行現九段は、対戦相手の揮毫した扇子を手にしていたことがありました。

 両者ともしきりに扇子をあおいで、熱くなった顔に風を送る。丸山が持っているのは、何も書かれていない白扇。対する三浦の扇子は、丸山が「撥雲」と揮毫したものである。

 三浦は「厳しい将棋を指す人の扇子を持つと、強くなった気がしませんか。自分の将棋には、まだ甘いところがありますから。でも、今回も使ったのは、ちょっと変でしたか」。

出典:中砂公治:A級▲丸山忠久棋王-△三浦弘行八段「毎日新聞」2003年11月13日朝刊

「深遠な盤外作戦・・・?」と思いきや、それほどの深い意味はなかった、ということでしょうか。

 最近の例では2018年8月、藤井聡太七段と里見香奈女流四冠による注目の対局において、里見女流四冠の扇子が意表をつくものでした。

 この時、里見女流四冠がかばんから取り出したのは、杉本昌隆七段(現八段)が「不撓不屈」と揮毫した扇子でした。杉本七段は対戦相手の藤井七段の師匠です。

 これはどういう意図があるのだろうか?

 観戦者は里見女流四冠の真意について、思いをめぐらします。杉本七段自身もそうだったようです。

 あえて対戦相手の師匠の扇子を選ぶのはかなり珍しいこと。藤井七段もそうでしょうが、私も意表を突かれました。

 そうか、里見四冠は私の得意な重厚な振り飛車が目標なのか……などと自分の将棋に自信をつけたりしますが、ともあれ、悪い気はしません。弟子との対戦ながら「里見さん頑張れ!」と一瞬思ってしまったのは、ここだけの秘密です。

なお、里見四冠は対局後のインタビューで「かばんに1本入れていたのがたまたま……。特に意味はありません」。うーん、深い意味があってほしかった……。少し残念です。

出典:「杉本昌隆七段の棋道愛楽」「朝日新聞」2018年9月11日名古屋地方版

 杉本七段は2018年3月、弟子の藤井七段との対戦で、杉本七段の師匠(つまり藤井七段の大師匠)である板谷進九段(1940-88)の扇子を手にして対局に臨みました。そこには「忍」と書かれていました。

 2017年。藤井四段(当時)がデビュー以来無敗で連勝街道を突き進み、空前の「藤井ブーム」が巻き起こる中、四段としては異例ながら、藤井四段揮毫の扇子が制作・販売されました。

 藤井扇子は売り出されるたび、あっという間に完売。2千数百円のものが、ネット上では3万円ぐらいの値段がつけられて転売されていました。(よくないことです、念のため)

 市販された扇子の揮毫は、四段時は「大志」。六段時は「専心」。現在の七段時は「飛翔」。「飛翔」は谷川浩司九段がよく揮毫してきた言葉でもあります。

 将棋を指す少年、少女たちの必須アイテムは、現在ではもしかしたら、藤井七段の扇子なのかもしれません。子どもが対局中、堂に入った仕草で藤井扇子を手にしていたら、もうそれだけで強そうな感じがします。

将棋ライター

フリーの将棋ライター、中継記者。1973年生まれ。東大将棋部出身で、在学中より将棋書籍の編集に従事。東大法学部卒業後、名人戦棋譜速報の立ち上げに尽力。「青葉」の名で中継記者を務め、日本将棋連盟、日本女子プロ将棋協会(LPSA)などのネット中継に携わる。著書に『ルポ 電王戦』(NHK出版新書)、『ドキュメント コンピュータ将棋』(角川新書)、『棋士とAIはどう戦ってきたか』(洋泉社新書)、『天才 藤井聡太』(文藝春秋)、『藤井聡太 天才はいかに生まれたか』(NHK出版新書)、『藤井聡太はAIに勝てるか?』(光文社新書)、『棋承転結』(朝日新聞出版)など。

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