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<今日は何の日?>「大本営から大ニュースが!」「手が震えた」太平洋戦争開戦…発表までの“緊迫の秘話”

辻田真佐憲評論家・近現代史研究者
(提供:U.S. Navy/National Archives/ロイター/アフロ)

今日、12月8日は、太平洋戦争の開戦日です。1941(昭和16)年のその日、多く日本人は午前7時のラジオで、突如その事実を知らされました。

臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部12月8日午前6時発表。帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋においてアメリカ・イギリス軍と戦闘状態に入れり。

現在ではデタラメの代名詞となっている、大本営発表がこれです。

なおこの戦争の名称は、同月12日、大東亜戦争と決定されました。戦後、アメリカの影響で太平洋戦争と呼ばれるようになりましたが、現在では、戦闘が行われた範囲などを考慮して、アジア太平洋戦争と呼ばれることが増えています。

ただこれも妥協の産物なので、かならずしも決定的というわけではありません。ここでは人口に膾炙した、太平洋戦争を使っておきます。

■「いま大本営から、電話で大ニュースが入った」と言われたアナウンサーは……

さて、この歴史的な大本営発表については、テレビの歴史番組などで聞いたひとも多いでしょう。しかし、じつはその音声は、当日午前7時のものではなかったといいます。ラジオ局(日本放送協会)でその発表を読み上げたアナウンサー、館野守男の証言を聞いてみましょう。

8日ごとに繰り返し放送され、レコードや映画にも使われた録音盤は、実は、昭和16年12月8日午前7時に放送されたものでなく、確か二度目に繰り返して放送した時のものである。最初の放送は、まったくの突然だったので、録音係の方で間に合わず、その前半が欠けて終わっていたように憶えている。

出典:館野守男「大本営発表」『太平洋戦争の肉声 (1)開戦百日の栄光』

館野はそのことを裏付けるように、開戦の発表がいかに唐突だったかについて、つぎのようにも証言しています。

午前7時直前、私が7時からのニュース原稿を持ってマイクの前に待機していると、スタジオの扉をあらただしくあけて、報道部の一人が飛び込んで来た。

「いま大本営から、電話で大ニュースが入った」

といって、走り書きの原稿を渡してくれた。すぐ臨時ニュースのチャイムを鳴らし、

「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます」

まず2回繰り返した。そして走り書きの原稿の字を追い追い読んだのである。

出典:前掲文

なんと、いきなり渡された原稿を読んだら、それが開戦のニュースだったというのですね。これには、館野も驚いたはずです。

現在残されている音声は、北朝鮮のアナウンサーとまではいかないまでも、けっこう勇ましいものです。ところが、そのときは読むので精一杯だったので、まるで「お通夜の放送のように沈んだもの」になっていたのではないかと、館野は振り返っています。

■「早速書き取ったのが開戦の発表文である」「書きながら私の手は震えた」

この館野に手書きの原稿を渡した、同局報道部の田中順之助がまた手記を残しています。これを読むと、本当にギリギリのタイミングだったことがよくわかります。

7時5分ぐらい前であろうか、電話のベルが鳴った。指揮室の当番をしていた和田信賢アナウンサーからの電話で『たいへんだ、たいへんだ! すぐ原稿をとってくれ』とあわてた声が聞こえた。早速書き取ったのが開戦の発表文である(中略)。書きながら私の手は震えた(中略)。

やっと『放送OK』が来たので、放送原稿をつかんで隣接したスタジオへ飛び込んだときはもう時報のポンポンという音が始まり、館野アナウンサーの前に原稿を置いたとたん、ポーンと7時を知らせる音がした。

出典:日本放送協会篇『放送五十年史』

これでは、録音盤が残っていないのも納得です。

なお、ここまで慌ただしくなった背景には、大本営陸軍報道部につめていた同局の永井順一郎が、報道局ではなく、放送の緊急対応を行う指揮室に原稿を送ってしまったこともありました。あまりの大ニュースに、気が動転してしまったのかもしれません。

■あの有名な映像もあとから撮影されたものだった?

12月8日の大本営発表については、映像も残っています。それは、陸軍の軍人が両手で紙をもちながら、緊張の面持ちを隠せず、いささか甲高い声で発表文を読み上げているものです。こちらもテレビの歴史番組でよく使われますから、見たことがあるひとも多いでしょう。

じつはこの映像、やはり当日午前6時のものではありません。あまりに突然の発表だったので、その歴史的な瞬間を録画する準備ができていなかったのです。そのため、今日残っているのは、ニュース映像のためにわざわざ再現されたものでした。

そうだとすると、この軍人はずいぶん緊張しているなと感じるのではないでしょうか。そう、この陸軍報道部長・大平秀雄は、口下手で、会話を好まず、たとえ再現でも固くなってしまうひとだったのです。

部下だった平櫛孝は、その人となりを率直に記しています。

大平は生来内向型で、人と話すことも好きでなく、また話下手で、むしろ部隊長、参謀長の適格型であった。お世辞にも報道部長に適格とはいえない性格で、陸軍省詰の記者や来訪出入の外部の人との折衝も好きでなかったようだ。

出典:平櫛孝『大本営報道部』

■口下手な軍人が報道部長に就いてしまった理由

では、どうしてマスコミ対応をする報道部長にそんなひとが就いてしまったのでしょうか。

もとより、陸軍もバカではありません。報道部長には、それまで外向的で、宣伝に秀でたひとがついていました。ところが、前任者の馬淵逸雄(このひとも『報道戦線』という著作があるほど宣伝のプロでした)が、東条英機陸相の不興を買い、突如として左遷されたのです。そのため、すぐに適格者を得られず、人事上の都合で、口下手な大平が報道部長に就いてしまったのです。

大平にとって運が悪かったのは、そこで太平洋戦争の開戦を迎えてしまったことでしょう。彼はその後も、まるではじめて人前で発表する中学生のように、ガチガチに緊張した姿で大本営発表を読み続けなければなりませんでした。

海軍には、雄弁家で知られた平出英夫(海軍報道部課長)がいましたから、陸軍側は緒戦の宣伝でどうしても一歩遅れをとってしまいました。

その状態が改善されたのは、遅れて1942年3月のこと。後任の陸軍報道部長・谷萩那華雄は明るく、冗談をよく言うひとでした。これでようやく陸軍は海軍と張り合えるようになり、「谷萩漫談、平出講談」という言葉まで生まれました。大平も報道部から離れられて、ホッとしたことでしょう。ちなみにその従弟には、「あーうー」で知られる大平正芳首相がいたりします。

いずれにせよ、大本営発表が国民のもとに届くまでには、このような人間ドラマがあったのです。太平洋戦争開戦のこの日、そんな歴史に思いをはせてみるのも、悪くないのではないでしょうか。

※資料の引用にあたっては、漢数字をアラビア数字に直すなど、一部表記を改めました。

評論家・近現代史研究者

1984年、大阪府生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。政治と文化芸術の関係を主なテーマに、著述、調査、評論、レビュー、インタビューなどを幅広く手がけている。著書に『ルポ 国威発揚』(中央公論新社)、『「戦前」の正体』(講談社現代新書)、『古関裕而の昭和史』(文春新書)、『大本営発表』『日本の軍歌』(幻冬舎新書)、『空気の検閲』(光文社新書)などがある。

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