「ながらメディア」としての長尺映像に適応していく身体
筆者も参加した、ジブリからゲーム実況までを扱った映像論集『ビジュアル・コミュニケーション 動画時代の文化批評』(南雲堂)刊行にあたり共著者全員により、「映像/視覚文化の現在」をテーマに様々な角度から共同討議を行いました。
■「ながらメディア」としての長尺映像に適応していく身体
佐々木
さきほど藤井さんから「生アニメはラジオの聴取に近い」というお話がありましたが、長時間の垂れ流し放送は「視覚メディア」としてよりも「聴覚メディア」、ラジオ文化の延長線上として捉えたほうがいいのかもしれませんね。生放送の画面を何時間も集中して観ている人はほとんどいないでしょう。片時も目を離さず見るものとしてではなく、「ながら見」前提のメディアとして存在している。
海老原
たしかにスマホを買ってからは生放送どころか好きなアニメすら真剣に見なくなった。テレビをつけているときはスマホをいじりながら観ている。定期的に見ているドラマだってCMのあいだはずっとスマホで情報収集や実況見ているから、CMの効果ってほとんどないんじゃないか、って気さえする。
飯田
情報の作り手/送り手側ではなく、受け手に目を向けると、たしかに「ながら視聴」化が加速している面もあるのかもしれません。どのみち「ながら」で消費するから、気合いを入れて集中しないといけないものは家ではあんまり観なくて、ゆえに垂れ流し映像もそれなりに需要があるのかな。
藤田
実家に帰って車に乗ると、ふだん聴かないAMラジオがついて、日高晤郎ショーとかいう謎の番組が一〇時間ぐらい生放送でやっているんですが、ああいうノリに近いのかもしれない。僕は個人的には、文字起こししてまとめてくれたほうが時間が省略できるからありがたい。長時間生放送って、付き合うのがめんどうくさくて、しんどい。
藤井
ドワンゴの川上量生が「動画は生放送になってリアリティは得たけど、結局全ての映像は見られないから、見られるように再編集されるようになる」と言っていましたね。国会中継や会見なども確かに全部見るのは疲れてしまいますのでこの発言は正鵠を射ている。
飯田
生放送も二パターンありますよね。ゆるくても番組構成があるものと、ただ延々としゃべっているもの。後者は素人のツイキャスとか昼間のニコ生のユーザー放送とかでいっぱいある。後者に関しては「友達がやっている」とかなら観るかもしれないけど、どんな気持ちでああいうのを観ているのか。ツイキャスを昼間に立ち上げるとフリーターの男が不登校の女子高生と電話で話しているのを中継していたりして、この世の終わり感がすごい。いくら視聴者数が少ないと言っても数人とか数十人はいたりするわけで、その何十人かは何を求めて観ているんだろうと思う。
藤田
一日五回ぐらい生放送して、合計の生放送回数が二〇〇〇回突破している一般人がいたりするんだけれど、意味がわからない。もはや、放送というよりは、長電話をするみたいな気分なんだろうか。
冨塚
以前「神聖かまってちゃん」のボーカル「の子」のツイキャスを一回だけ見たことがありますが、私もよくわからなかったです。
藤田
いや、かまってちゃん的なものは「わかる」よ。放送機材を持ったままどこかへ突撃していって警官に職務質問されたり、田母神に突撃していって選挙カーに乗せてもらうとかね。それは意外と盛り上がっていて、選挙カーから降りてきたらコメント欄に「もっとやれ」とか書かれて視聴者に責められて「イヤだ。もう交通費がないから……」って半泣きになりながらコメントと喧嘩していたのはおもしろかった。そういう『電波少年』的な、今まではできなかったようなことを個人が自己責任でモバイル環境でやるからできる過激なことのおもしろさはわかる。
あと、女の子がやってるエロいやつもわかる。でも、だらしたどうでもいい話が延々と続いている、おっさんとか十代がやってるやつは、わからない。やる側の気持ちはわかっても、好んで見る人が、さっぱりわからない。
佐々木
ただ、テレビの登場時にも同じようなことが言われていたのではという気もします。ながら視聴やぐだぐだ感の強調は、あるメディアに固有な性質というよりも、新しいメディアの登場時に現れやすい言説の型なのかもしれない。一日中ぼーっと画面を見続けるような体験がネット以降に特有なものなのかテレビ以降なのか、それ以前からあるものなのかは、考える余地があると思います。
竹本
そういう垂れ流し系動画は、日常の暇つぶしの拡張として捉えるのが一番わかりやすいと思います。「さぎょイプ」という言葉がありますが、これは「作業スカイプ」の略で、たとえば同人イラストを描く人間同士でスカイプ通話をしながらお互いの作業を進めるといった行為を指します。
会話内容は今やっている作業についてであったり単なる雑談であったり様々でしょうが、要は会話のための会話ではなく、作業を気楽に進めるため、気を紛らわすためにスカイプを繋げておき、気の向いた時に話しかけるといった作法です。さぎょイプは基本的にはクローズドなやりとりですが、これを公開すると垂れ流し生放送になるわけです。放送する側も見る側も暇つぶし感覚で、作業の合間にBGM的に流しておき、気が向いた時や面白い発言が出てきた時にだけ反応する。あるいはそういった反応を前提としてだらだらと配信する。友人とのくだらない日常会話の感覚そのままです。
藤田
美術批評ではgazeとglanceという言葉がありますよね。gazeは凝視で、glanceは美術館とかでチラッと見て通り過ぎていくようなありかた。さっきも言ったけど、生放送垂れ流しの視聴スタイルは、もう一個の新しいありよう、「聴き見」。
冨塚
藤田さんがおっしゃっているのはノーマン・ブライソンが提唱し、『視覚論』のマーティン・ジェイ論文やスヴェトラーナ・アルパースのオランダ絵画論(『描写の芸術』)で援用された議論ですよね。ここでgazeというとき想定されているのは絵画の遠近法なので、動画視聴のあり方にそのままスライドさせて考えてしまうと危険な部分もあると思いますが、ある程度単純化したアナロジーでいえば、gazeは「ここを集中して見てください」というポイントが一義的に確定できるという前提のもとで成立したものの見方であったと。それに比べると視点が断片化していて、どこからどう見てもいいという意味では、現代の動画視聴のあり方は、全体的にglance的な方向に寄っているとは思います。
事実、マノヴィッチも『ニューメディアの言語』でニューメディアのアート作品とglanceの美学の親近性について指摘していました。
渡邉
先ほど出ていた批評スタイルの話に引きつけて言えば、蓮實重彦の批評は「gazeの批評」だったわけです。「スクリーンの誰も気がつかないような具体的細部にまで注目しろ」というのだから。でも、それは映画が九〇分の時代だったからで、八〇〇分ぐらいある映画だったら蓮實重彦であってもさすがにずっと凝視はできないでしょう(笑)。デジタルとソーシャルで「ダダ漏れ」の時代の映像は、必然的に見方も語り方も「glance的」になっていくのだと思います。
飯田
だらだらしている動画は、だらだらしているからこそ見る側も受容できているということでもありますよね。人間は構築的な映画を八時間ぶっ続けで見られない。集中力の限界が来る。
藤田
生放送垂れ流しはglance的な「チラ見」というより、何かボヤーッと見る感じで、また違う気がするんです。構図的に散逸しているわけではない。
佐々木
ベンヤミンの言う「気散じ」に近いんでしょうか。
藤田
そうか、「気散じ」が近いのかもしれない。それに、マルチウインドウ、というのを付け加えればいいのかな。
竹本
テレビをつけっぱなしにしたまま生活する感覚でパソコンでストリーミング動画を流し続ける生活というのは、僕やもうすこし下の世代の中ではわりとポピュラーなものだと思います。もっと世代が下るとパソコンではなくスマホが主流になってまた様相は変わってくると思いますが。
飯田
ここまで弛緩しきった映像垂れ流しが蔓延する状況はごくごく最近生じたもので、人類はまだそんなに経験を蓄積していない。だから「適切な言葉がない」のはそのとおりなんだと思う。
宮本
垂れ流しは一方通行なものではなくて、たぶん話者同士やコメントをつけているひと同士のコミュニケーションの場になっているから楽しめるんじゃないでしょうか。世の中には色んな見方があるってことがわかるし。
佐々木
慣習の問題でもあるように思います。それがどんな長さや形式の映像であっても、今それが主流であったり、手を伸ばせばすぐ見られる距離にあれば、次第に慣れてきて自然に見られるようになってくる。いったんある形式に最適化された人間が別の形式にはじめて触れるときには大きな苦痛が伴いますが、それも努力や訓練、慣れによってある程度は克服可能なのではないでしょうか。垂れ流すような放送についても、視聴者側が訓練してその形式に自らを最適化できれば意外と何時間でも平気で見れちゃうのかもしれません。そこまで努力しようと思うかどうかはまた別問題ですが……。
冨塚
そういう意味では、たとえば映画ファンがストローブ=ユイレなどの作品を観る際に苦痛をともなった訓練を必要とするのと同じように、垂れ流しの映像をだらだら見るためにも、ある種の訓練が必要なのかもしれないですね。
渡邉
たしかに、ストローブ=ユイレの『アルテミスの膝』や『ヨーロッパ2005年、10月27日』なんかは長回しでずっと森を撮っていたりする。ストローブ=ユイレも『ヨーロッパ2005年~』では、左右にずっとパンしているだけだから、今の若い日本人が見たら「『gdgdストローブ』じゃん」みたいなことを言うかもしれない(笑)。
藤田
映画史で重要だという信頼のもと、何か意味があるはずだと思っているから、ユイレとかも観るわけで、卓越した作家性や映画の権威性のない無名の人のだらだらしたものを何時間も付き合って、鑑賞する余裕は、さすがに人生の余命を考えると、あんまりない。いっぱいありすぎるし。
飯田
『「期待」の科学』という本では、人間の感覚は事前に入れた情報がポジティブかネガティブか、あるいは権威付けされているかによって味覚にしろなんにしろ、簡単に評価が変わるという事例がたくさん紹介されていた。「映画史的に重要」という刷り込みがプラシーボ効果的に効いているケースはあると思う。
冨塚
二、三年前にイメージフォーラムで観たアンディ・ウォーホルの『チェルシーホテル』は、正直その刷り込みがなければ最後まで観られなかったです。途中で帰ろうかと一〇回ぐらい思いましたからね(笑)。同時期に美術館でウォーホル展をやっていたときにも映像作品がたくさん流れていましたが、自分も含めだいたいみんな観たとしても数分で「ふーん」という感じで通過していく。
渡邉
森美術館という権威化されたホワイトキューブで上映しているから流し見して「よし、チェックした」とか思うけれど、今ここの会議室で、YouTubeとかで『エンパイア』を上映して「じっくり見ろ」と言われてもつらいということですね(笑)。
飯田
長時間生放送に対しては慣れて楽しめる人間がたくさんいる一方で、ウォーホルの映像は権威化されていても耐えられないというのはおもしろい(笑)。
佐々木
長時間の構築的な作品でも意外と楽しく見られるものもありますけどね。フレデリック・ワイズマンとか、あるいは私はまだ全編を見ることができていませんが、様々な映画から時計が映っているショットだけを二四時間つないだクリスチャン・マークレーの『ザ・クロック』がすごく感動的だったと、映画ツイッタラーの@noirseさんから聞きました。作中の時計が指している時間と現実の時間が同期しているので、夜になるとだんだん画面の運動自体が静かになっていき、朝になると登場人物たちがまた活動を始める……。
渡邉
それは『親密さ』やワン・ビンの『鳳鳴(フォンミン)――中国の記憶』にも似ていますね。
冨塚
『鳳鳴(フォンミン)――中国の記憶』に影響を与えたとも言われるジャン・ユスターシュの『ナンバー・ゼロ』も、家族を長回しでひたすら撮っている際の時間の経過、日差しの変化が画面に映りこむさまがすばらしい、といった語られ方をしていますよね。
藤田
そういう意味ではやはり「映画」はどこまでもロックやポップスみたいにリズムもあってメロディもあって構築的に編集されているものだとすると、「垂れ流し生放送」はアンビエントや音響派みたいなホワーンとした楽しみ方になっているのかな。僕の書いた論で「禅ゲーム」と名づけた一部のインディーゲームも、派手なアクションとかバトルのような快楽を抜きにした、癒し系みたいになっている。盆栽を見るとか、庭園を散歩する感覚に近い。昔で言う『シーマン』みたいなものをもっと極端に、チープにしていて刺激は薄いんだけど、僕も音楽すら流れない地下鉄の乗客が移動するだけのゲームのプレイ時間が一〇時間を超えている。だいたい疲れていて他のゲームをやりたくないときにやるんですけどね。それと並行している現象なのかもしれない。
海老原
なんでゲームするのが仕事みたいになってんの(笑)。疲れてまでやることないでしょう。
藤田
FPSとかって反射神経が要求されるから、疲れるんですよ。禅ゲームはだらだらしたいときにやるんです。
■映像/視覚拡張メディアとしてのゲーム
飯田
ここ数年「ゲーミフィケーション」や「ナラティブ」をはじめゲームに注目する動きがあるけれど、それは主にしくみの話、ゲームのシステム的な面や「いかに物語を語るか」への着目であって、ゲームの映像的な側面への関心ではなかった。だけど藤田君の論考を読むと「映像としてのゲーム」という語り方も必要だなと感じました。ビデオゲームが蓄積してきたユーザーインターフェースやピクセル表示なんかをほかの映像や現実に持ち込むとそれだけで「ビジュアルによるゲームっぽさ」が担保されてリアリティレベルが変わるような感覚がある――たとえばリアル脱出ゲームみたいな体験型ゲームは「しくみ」だけでなくて「ビジュアルによるゲームっぽさ」をうまく応用した娯楽だと思います。
藤田
そもそもビデオゲームのおもしろさは「テレビの画面を自分で動かせる」ところにあったわけです。ファミコンのころは2D、今は3Dで画面を動かせるようになり、システムも高度化したから見えにくくなっているけれど、「画面が動く」「動かしながら見る画面」ということの原初的な驚きは大きいはずなんです。
ゲームをプレイして没入しているときにはリアリティをすごく感じる。でも醒めているときにはテクスチャーむきだしに見えて「微妙だな」と思う。没入感があるときは手を動かすこととかに脳のリソースが割かれて視覚を処理するリソースが減っているからプアな画面でも現実と錯覚するようになっているんだと思う。そういう、インタラクティヴィティによって「画面が変わる」経験を踏まえた、ゲームの映像論が必要と思う。
飯田身体を固定した人にヘッドマウントディスプレイをかぶせて、そのひとが遠隔操作でアンドロイドを動かせるようにした実験があるんですが、その人がアンドロイドを操作しているときにいきなりアンドロイドに注射をすると、まったく動かしていない本人の身体のほうで手に汗をかいたりする。アンドロイドの視覚や身体を共有していると「自分の身体だ」と脳が認識して、そういう反応してしまうらしい。ゲームもそういうふうに、視覚と身体感覚の共有というか拡張をしているんだと思う。
藤田
ラマチャンドランが、本当はない手が痛むという幻肢痛について書いていますよね。腕はないんだけど、腕に対応する脳神経のほうは生き残っているからそうなる。ゲームのなかの身体、映像のなかの身体に、人間の脳は何らかの経路で「つながっている」と認識しているんだと思う(一部、そういう研究が行われているみたいだと、宮本くんから教えてもらって、勉強になったよ)。
宮本
他者の行動を見たときにミラーニューロンが反応して、脳内で自分に置き換えたシミュレートが生成しているという説がありますが、そういう現象は起きているでしょうね。「つながっている」という面では、心理学者の入來篤史らの実験で、サルは道具を使っているとき視覚受容野が拡大するっていうことが分かってから、どうやら人間にも道具を身体の延長として脳に組み込むシステムがあるらしいってことが色々研究されるようになってきました。
身体イメージは延長するだけでなくて、うまく錯覚を使うと自分以外のモノに転移させられるらしく、例えばクレイグ・マレーはヴァーチャル・リアリティで幻肢痛を軽減する実験をしています。飯田さんの仰っている実験も身体感覚の転移についての話で、これまでの他の研究では視覚と触覚の両方のフィードバックがないとそういうことは起こせていなかったのですが、今回アンドロイドを使ったら視覚フィードバックだけでそれが起こったみたいですね。
市販ゲームをやっているとき感覚の転移がどこまで起きているかは分かりませんが、我々はマウスを通してコンピュータ画面上のカーソルをおそらく身体の延長として処理していますし、ゲームのキャラクターにもコントローラーを通してある程度は身体が延長されているんじゃないでしょうか。
飯田
「身体の拡張」という話はよくされるけど「視覚の拡張」という切り口は意外と見ない気がする。ビデオゲームを「自分で動かせる画像」という視覚拡張メディアとして捉えるのはおもしろい。
藤田
昔はせいぜいビデオやDVDの巻き戻しや早送りはできたかもしれないけど、今はパソコンとかもWindows8なんか画面を指で触って動かせるのが当たり前になってしまったから、動画が動かせるということの驚きが、見えにくくなっているんです。のちのちこれを読んだ次世代の子供たちは「画面が動かない時代があったの?」「この時代はこんな化石みたいなことを考えていたんだな」と思うかもしれない。