【富士宮市】郷土資料館企画展示『家康が生きた、時代をたどる』 戦国時代の富士宮を目で見て知ろう!
現在放送中のNHK大河ドラマ「どうする?家康」、皆さん見ていますか?
また富士宮市内にも家康の多くの足跡が残っていることをご存じでしょうか?
現在郷土資料館では「どうなる、富士宮?家康が生きた時代をたどる」企画展示が行われています。
資料展示と共に富士宮市で起こった三つの戦乱を、目で見て知ることができます。
富士宮市に残る貴重な資料を無料で見ることができ、戦国時代をより身近に感じることができる企画展示になっています。
常時展示されている資料の奥に、企画展示がありました。
写真撮影はNGですが、今回は取材という事で特別に許可を頂いて撮影しています。
河東とは駿河国の富士川以東を指しています。1537年から河東の支配権をめぐり、北条氏vs今川・武田氏の間で起こった争いのことを「河東一乱」と呼びます。
それまで北条氏と同盟関係にあった今川氏が領国を安定させるため(敵国の)武田氏と同盟を組んだため、北条氏は同盟が破られたと考え河東を侵攻しました。
この乱では富士宮も争いの場となりました。
その際小泉上坊に立てこもった富士宮若という人物が北条氏の武士を撃退しました。
1545年に河東一乱が終わると今川氏は自分の治める地域として、大規模な検地を行いました。
また修験者・大鏡坊に対して村山の清浄性、治安維持のために「今川義元判物」を発行しました。
桶狭間の戦いで動揺する領国の立て直しを図り、今川氏真(義元の子)は、浅間大社東側の大宮司居館を複数の堀・土塁を作り守りを固め「大宮城」と呼ばれる城代を作りました。
迫る武田氏に対し今川方の武士は大宮城に立てこもり抵抗。1568年12月と、1569年2月の攻撃では武田軍を退けましたが、信玄自ら指揮した1569年6月の攻撃により降伏しました。
武田氏は大宮城の修復をして軍事拠点として強化し、側近の原昌胤(まさたね)を軍事・行政長官に任命し、を拠点に富士郡の一部を支配担当させました。
大宮を手に入れた信玄は翌年、北条氏の城を攻略するため駿河国に侵攻します。この時浅間大社に「武田信玄願文」を捧げ、北条氏の滅亡を祈りました。
1572年に武田氏と北条氏の同盟が復活すると、武田氏は本格的に駿河国を領地としました。浅間大社も軍事的な拠点から宗教的な拠点へと政策が切り替えられました。
1573年に信玄が死去すると、後を継いだ勝頼もまた浅間大社の立て直しに取り組みました。
1552年織田信長は家康・北条氏と協力し、武田領へ侵攻しました。武田軍の劣勢を受け、武田軍の武士たちは武田軍を離れ織田氏に味方し始めます。武士の裏切りと織田氏らの攻撃により武田氏は滅亡しました。
1852年に織田信長が本能寺の変で討たれ、甲斐国を納めていた織田氏の家臣が殺害されると旧武田領をめぐり天正壬午の乱が起こります。
この戦いを制したのは家康で、三河国・遠江国・駿河国・甲斐国・信濃国を領国とする大名になります。
家康は富士郡の防衛や治安維持を過信に担当させました。また農業振興にため北山用水を開削したり、公用の連絡制度を再整備したり、浅間大社の復興・保護、諸販売の振興をしました。
現在でも訪れることができる歴史の中の関連スポットも、市内には多く残されています。
無料配布されている冊子には戦国時代に富士宮で起こったことが更に細かく記載されています。
冊子を手に富士宮市に残る戦国時代のスポットめぐりをしても楽しそう。富士宮で起こった歴史を知ると、ますます地元が好きになりそうです!
富士宮市郷土資料館企画展示「どうなる、富士宮?ー家康が生きた時代をたどるー」
場所:富士宮市宮町14-2(富士宮市民文化会館1F)
期間:~7月10日(土)
時間:9:00~17:00
問い合わせ先:教育委員会事務局 教育部 文化課 市史編さん室
TEL: 0544-22-1187
特別講演会「戦国時代の河東地域」
日時:7月2日(日)14:00~16:00
講師:山田邦明氏(愛知大学文学部教授、市史編さん委員)
会場:富士宮市民文化会館展示室3
定員:50名(先着順、要申込、定員になり次第終了)
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