マツコも輩出! 休刊が発表された“ゲイのトキワ荘”『バディ』が夢見た世界
25年の長きにわたりゲイカルチャーの一翼を担っていた雑誌『BAdi(バディ)』が、2019年1月21日発売の3月号をもって休刊されると発表された。
これで、紙媒体の商業ゲイ雑誌は『SAMSON(サムソン)』を残すのみとなった。
『バディ』といえば、マツコ・デラックスらを輩出したことでも知られる雑誌。
ドラァグクイーンとしても知られるマーガレットこと小倉東が実質的初代編集長を務め、その下の編集部員としてブルボンヌ(斎藤靖紀)やマツコ・デラックスがいた。その人材の豊富さを表して『真夜中』の中でリリー・フランキーは、『バディ』をこう形容した。
「ゲイのトキワ荘」
マツコは18年11月に発売された『バディ』25周年記念号に、創刊当時(90年代)のメディアにおけるゲイブームを振り返りながらコメントを寄せている。
そんな『バディ』は、どのようにして生まれたのだろうか。
それを紐解く前にまず日本におけるゲイ雑誌の歴史を簡単に振り返ってみたい。
ゲイ雑誌の黎明期
日本におけるゲイ雑誌の原型といわれているのが戦後間もなくの1952年に創刊された『ADONIS(アドニス)』。
これは、「アドニス会」という会員制の男性同性愛サークルの会報誌。つまり同人誌だった。
アドニス会には、作家・三島由紀夫、推理小説家・中井英夫ら文化人も所属していたといわれており、『アドニス』の別冊として発刊された小説集『APOLLO(アポロ)』には、三島が榊山保名義で「愛の処刑」を寄稿したという。
会員は約200人にのぼり、雑誌の背表紙には個別に番号が振られていた。もし、流出した場合、誰から流出したかが分かるようにしたためだ。現在はLGBT関連の雑誌・書籍等を集めたブックカフェ「オカマルト」を開いているマーガレットはこう解説する。
内容は男性ヌードデッサンや読み物、会員たちの投稿欄などで構成されていた。
『薔薇族』の誕生
しかし、商業誌としてのゲイ雑誌誕生まではそれから約20年、『薔薇族』が創刊される1971年まで待たなければならなかった。
『薔薇族』の編集長は、伊藤文學。異性愛者だ。
伊藤は父親が創立した「第二書房」に入社。不景気の時代、小さな出版社が生き延びる道を模索し、一般成人向けに「ナイト・ブックス」という新書シリーズを立ち上げた。月1冊ペースで約60冊発刊されるほど売上は好調だった。
そんな中で大ヒット作が生まれる。秋山正美による『ひとりぼっちの性生活 孤独に生きる日々のために』だ。マスターベーションを科学的見地から解説する本で、テレビなどでも紹介されシリーズ化された。この本には多くの反響が寄せられたが、そのひとつに伊藤は天啓を得た。その手紙には「銭湯で男性の裸を見て片隅でこっそりマスターベーションをしています」と書かれていたのだ。同様の趣旨の手紙も多かった。だったら、同性愛向けの単行本を作ろうと思い立った。
伊藤は手始めに、当時、ストリップ劇場などでレズビアンショーが流行していたこともあって、『レスビアンテクニック 女と女の性生活』を刊行。その第2弾として1968年に『ホモテクニック 男と男の性生活』を出版した。この本は、第二書房でトップ3に入る売上を記録。だが当時、書店では買いにくいと、直接出版社まで買いに訪れる人も少なくなかった。伊藤が彼らに話を聞くと「出会いの場がない」だとか「ゲイバーに行く勇気がない」といった声が多かった。
そこで、伊藤はゲイ同士の出会いの場とする文通欄のあるゲイ雑誌を作ろうと考えた。そうして、編集実務を取り仕切ることになる藤田竜や間宮浩らの協力を得て創刊されたのが『薔薇族』だった。
創刊号の文通欄掲載は藤田竜を含むわずか7人。だが、2号は20人、3号は100人……と、どんどん増え、遂には誌面の半分を占めるようにもなった。
文通は匿名性を確保するためいったん編集部に集められ、そこから相手に送るというシステム。
ピーク時には1日1000通近くの手紙が届き、それを夕方の便で転送していたという。その役割を担っていたのが、伊藤の妻の久美子だった。
『薔薇族』の表紙は途中から長年にわたり、藤田竜のパートナーでもあった内藤ルネが務めていた。
内藤ルネと言えば、いまでいう「カワイイ」文化を牽引したイラストレーター。署名入りで『薔薇族』の表紙を描いていたことは、実質的なカミングアウトだったのだろうと、彼と親交のあったピーコは言う。
彼は、自身のスケッチブックにこんな言葉を残している。
『薔薇族』の成功を受け、レズビアン雑誌『Eve&Eve』や『アドン』、『さぶ』などの競合誌が創刊され、市場が活性化されていった。
しかし、一方で80年代に入ると大きな逆風が吹き始める。当時、猛威をふるったエイズだ。HIV感染者に同性愛者が多いとされる報道によって偏見が蔓延していったのだ。
さらに、衝撃的な事件が起こってしまう。
1983年、『薔薇族』を万引きして捕まった少年が飛び降り自殺してしまったのだ。
『バディ』の誕生
マーガレットこと小倉東もそんな少年のひとりだった。
1990年代に入ると、メディアではゲイブームが起こる。テレビドラマで初めて本格的に男性同性愛を扱った作品といわれる『同窓会』(1993年、日本テレビ)が放送されたり、ドラァグクイーンのオナペッツらがバラエティ番組に数多く出演するようになった。
元々ヘアメイクをしていた小倉はそんな時代に編集の仕事を始めるようになった。別冊宝島のゲイ三部作(『ゲイの贈り物』『ゲイのおもちゃ箱』『ゲイの学園天国!』)に編集・ライターとして参加。その縁で、テラ出版の平井孝から声がかかった。
平井からの呼び出しを受けて訪れた先で行われていたのが新雑誌『バディ』創刊準備号の編集会議だったのだ。
『バディ』は、それまでゲイ雑誌に広告を出す側だったビデオメーカーやゲイショップ13社が集まって、自分たちの雑誌を作ろう、自分たちで売ろうとという発想で企画された。しかし、集まった編集部員たちが出している企画は売れそうにない古臭い企画ばかり。会議は重苦しい空気が流れていた。
決まっていたのは、新雑誌のキャッチフレーズだけ。しかもそれは「強い男のハイパーマガジン」。小倉は頭を抱えた。しびれを切らし、小倉がアイデアを出し始めると、自然と編集を任されるようになり、なし崩し的に“編集長代行”や“スーパーバイザー”という肩書で実質的な初代編集長となったのだ。こうして『バディ』は1994年11月に創刊された。
ちなみに創刊当時の『バディ』は、それ以外のゲイ雑誌同様、雑誌としては小さめのA5サイズだった。これには理由がある。一般雑誌と重ね隠して買えるというものだ。加えて、その分厚さにも理由があった。
僕らのハッピー・ゲイ・ライフ!!
小倉はゲイ雑誌の変革に着手する。それはクローズドだったゲイ雑誌をオープンなイメージにすることだった。
キャッチフレーズを「僕らのハッピー・ゲイ・ライフ!!」に変えた。これにより、「ゲイ」という言葉が日本に浸透したという。
ゲイ雑誌に顔をだすことなどそれまでの常識では考えられない時代に、あえてライターや編集者たちの「顔」を積極的に出すようにしていった。そうしてブルボンヌやマツコといったスター編集者が生まれていったのだ。
自分たちが顔を出していくことで「ゲイだって言っても大丈夫なんだ」というイメージを読者に与え、読者が気軽にゲイとして雑誌に顔を出すことを推奨した。その中のひとつのコーナー「街角パンツ(マチパン)」は現在も続く人気コーナーだが、それを発案し、主導したのがマツコだったという。平井は述懐する。
そんな『バディ』の「ハッピー」路線はゲイ・コミュニティの中でも賛否両論があった。けれど小倉には強い思いがあった。
創刊からわずか5年。『バディ』は『薔薇族』の売上を超える当初の目標を達成。役割を終えた小倉は編集長を退いた。
そして2000年代に入り、『バディ』も大判に変わった。LGBTブームも到来し、その功罪はあるが、カミングアウトもこれまでよりはしやすくなった。秘密を保持し合わざるを得なかった時代に比べれば、オープンに生きられるようにもなった。小倉が夢見た「ハッピー・ゲイ・ライフ」は少しずつ近づいてきているように見える。
しかしながら、2015年、アウティングされた大学院生が投身自殺するという痛ましい事件が起こるなど、まだまだ偏見や差別が解消されたとは言い難い。
だからこそ、ゲイカルチャーを伝えるものが、それが雑誌という形態ではないのかもしれないが、いまも不可欠なはずだ。
(参考)
・ETV特集『Love 1948-2018~多様な性をめぐる戦後史~』(Eテレ)18年6月16日放送
・『真夜中』(フジテレビ)17年5月28日放送
・『バディ』19年1月号(18年11月刊行)