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「旗揚げ50周年」を迎える新日本プロレス、記念すべき最初の興行を掘り起こしてみる

清野茂樹実況アナウンサー
アントニオ猪木の新団体旗揚げに駆けつけた倍賞姉妹(写真:東京スポーツ/アフロ)

来月6日、新日本プロレスがいよいよ「旗揚げ50周年」を迎える。日本でプロレス団体が半世紀の歴史を刻むのは、今回が初めてのこと。では、1972年3月6日に大田区体育館(現・大田区総合体育館)で開催された最初の興行とは、いったいどんなものだったのか?設立時の状況や時代背景を含めて解説してみたい。

激動の時代背景

新日本プロレスとは、日本プロレスを追放されたアントニオ猪木が自ら上がるために作ったリングである。1972年の1月13日に会社登記してから、3月6日に旗揚げするまでの流れは異例のスピードで、これには「迷わず行けよ」という猪木の行動主義がよく表れている。日本プロレスからの妨害を避けるために準備は水面下で進められ、オープニングシリーズの参加メンバーと日程が発表されたのは、2月21日であった(猪木が29歳になった翌日にあたる)。登記から旗揚げ戦までの間には、札幌冬季五輪、あさま山荘事件、横井庄一元日本兵の帰国、米国大統領の訪中など世間を騒がせるニュースが集中。猪木にとっては結婚直後に職を失うという、人生の激動期にあたる。

全6試合での船出

新日本プロレスの旗揚げによって、プロレス界も3団体による激動期に突入する。現在の規模からはとても想像つかないが、新規参入の団体はとにかく駒不足だった。所属選手は、猪木の他には山本小鉄、木戸修、藤波辰巳(現・藤波辰爾)、北沢幹之、柴田勝久のわずか6人のみ。旗揚げ戦を前に募集した練習生は練習の厳しさに逃げ出してしまい、外国人に関しては日本プロレスがNWAと、国際プロレスがAWAと提携していたため、他のルートで探さねばならなかったのである。猪木の対戦相手となるカール・ゴッチにブッキングを頼った結果、やって来たのは無名の選手ばかり。当時の興行は8試合が平均的だったにもかかわらず、6試合組むのが精一杯で、テレビ放映も決まらないまま旗揚げ戦を迎えるのであった。

サプライズとUターンで始まった歴史

さて、旗揚げ戦の当日は月曜日で、試合開始は午後6時半。リングアナを務めた大塚直樹によると「会場が大田区体育館になったのは、当時、大田区がプロスポーツに最も協力的で会場を借りやすかったから」だという。この日は、既にプロレス界を離れていた豊登が予告なしでリングに上がるサプライズがあった。かつて金銭トラブルで猪木と絶縁していた豊登が試合をすることは社員やマスコミにも一切知らされておらず、新日本プロレスの伝統になっている「サプライズ」と「Uターン」は、この頃からすでに始まっていたことになる。ご祝儀もあったのか、動員は5000人の満員を記録。リングサイドには猪木夫人(当時)の倍賞美津子と千恵子姉妹、坂本九と柏木由紀子夫妻らも駆けつけて花を添えた。

旗揚げ戦から繋がる運命の糸

旗揚げ戦はひとまず成功したものの、テレビ中継がない間は動員に苦戦が続く。ただ、当時の出来事で見逃してはならないのは、オープニングシリーズ中にプロボクサーのカシアス・クレイ(のちのモハメド・アリ)が初来日していることだ。猪木が薄暗い体育館で無名の外国人選手を相手に闘っていた頃、アリは日本武道館のリングで華々しいスポットライトを浴びて、スポーツ界の話題を独占していたのである。ここから4年後に猪木とアリが対戦し、新日本プロレスが日本武道館に進出するとは、いったい誰が想像できただろうか。世界的スーパースターとの格差を急速に縮めた猪木の力、さらには新日本プロレスの攻めの姿勢、そして、理屈では説明できないアリとの運命を感じずにはいられないのである。

※文中敬称略

実況アナウンサー

実況アナウンサー。1973年神戸市生まれ。プロレス、総合格闘技、大相撲などで活躍。2015年にはアナウンス史上初めて、新日本プロレス、WWE、UFCの世界3大メジャー団体の実況を制覇。また、ラジオ日本で放送中のレギュラー番組「真夜中のハーリー&レイス」では、アントニオ猪木を筆頭に600人以上にインタビューしている。「コブラツイストに愛をこめて」「1000のプロレスレコードを持つ男」「もえプロ♡」シリーズなどプロレスに関する著作も多い。2018年には早稲田大学大学院でジャーナリズム修士号を取得。

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