【富士宮市】『冨士山興法寺大日堂』って中に入れるの?歴史を感じる所蔵物を拝観させてもらいました!
明治の初めまで富士修験道の拠点となっていた『冨士山興法寺』。戦国時代には今川氏の加護を受け富士登山の中心地として栄えましたが、明治の神仏分離令を受けて『冨士山興法寺』は廃され、『大日堂』と『浅間神社』は分離されました。
普段は入口が固く閉ざされている『冨士山興法寺大日堂』(平成25年8月に『大日堂』から『冨士山興法寺大日堂』に名称が変更)ので、中はどうなっているんだろう?といつも疑問に思っていたのですが、ボランティアガイドさんのいる土日祝日は開放されているそうで、入口が開いていました。
そーっと中を覗いていると、「中に入っても良いですよ」とボランティアガイドさんが招き入れてくれました。
綺麗で新しい建物に見えるのは、平成25年2月から調査が始まり、27年3月にかけ保存修理工事が行われたからです。
基本的に手作業で解体を行い、一部を取り替えたり傷んだ部分を修繕したりして出来るだけ再利用して、当時の工法にならい、出来るだけ建造当初の形に復元されたそうです。
良く見ると新しく感じる無垢の木の壁にところどころ年代の違いを感じる木材が交じっているのが分かります。
中に入り、最初に目に入るのが『絹本著色富士曼荼羅図』です。『冨士山興法寺大日堂』が中心に描かれていることから、富士山における修験道の中心地だったことを窺えます。
また奥には富士宮市文化財に指定されている富士山関係で現存している最古の大日如来像『木造胎蔵界大日如来坐像』、『木造胎蔵界大日如来坐像』、また史記に記載され実在したと言われる山岳信仰を広めた『役行者倚像』と従えていたという前鬼・後鬼どちらかの一体など、歴史を感じる所蔵物が並んでいました。
左奥には、頭のない仏像がいくつも並んでいました。
昔タイ旅行に行ったときの光景を思い出しました。アユタヤの遺跡群にも頭のない仏像が多く存在していました。戦争中にこの地を制圧した証として、ビルマ軍が仏像の頭を破壊したからです。
『冨士山興法寺大日堂』の首のない仏像は戦争ではなく、明治時代の廃仏毀釈運動の影響で富士山中の仏像が壊されたり、頭を破壊されたからなんだそうです。
人々の信仰を集めているものを破壊することで権力を誇張する行為となっていたのかもしれません。
他にも7月のお山開き式、護摩焚神事、禊神事のパネルなどを見せてもらいました。
「4月になれば桜やツツジ、秋には彼岸桜も綺麗ですよ」案内してくれたボランティアガイドさんが、そう言って『冨士山興法寺大日堂』前のツツジを示してくれました。
1580年の北条氏の兵火によって社殿を失いましたが、武田勝頼が再建し、1583年には、徳川家康が堂社および諸末社を造営したそうです。『冨士山興法寺大日堂』は家康ゆかりの地でもあるんです。
村山浅間神社が富士山世界遺産構成資産になったことで、貴重な文化財が守られ、拝観することができる事に感謝をしました。
そして、文化財を大切にできる時代が豊かで平和であることを改めて実感しました。
冨士山興法寺大日堂(村山浅間神社)
住所:富士宮市村山1151
TEL:0544-26-6713(案内所)
富士山世界遺産ガイドさんのいる日:土曜日、日曜日、祝日
時間:10:00~15:00