東京大空襲から76年~危機にあって無能の宰相・小磯国昭~
本日(2021年3月10日)で東京大空襲(下町空襲)からちょうど76年目となる。この時の日本の総理大臣は、陸軍出身の小磯国昭(こいそくにあき)であったことは周知のとおりである。戦争という国難の中、首都東京が米軍の爆撃により灰燼に帰すという一大時において、一国の宰相たる小磯はどうふるまったのか。76年目の今、簡潔に振り返る。
・陸大卒、参謀本部勤務のエリートだった小磯国昭と朝鮮支配
真珠湾攻撃に端を発する太平洋戦争勃発から約2年半が過ぎた1944年7月。当初南方地帯を迅速に占領した日本軍は、連合国に対して全くの守勢を強いられていた。マリアナ諸島の戦略的要衝・サイパンの陥落によって、開戦時の首相であった東条英機に対し、猛烈な反東条の機運が持ち上がり、東条内閣は総辞職した(1944年7月)。
東条の代わりに首相候補として有力視されたのは、南方軍司令官の寺内寿一(てらうちひさいち)、朝鮮総督の小磯国昭、支那派遣軍司令官の畑俊六(はたしゅんろく)の三名であったが、寺内と畑は連合国や国民党との激戦が続く第一線の司令官であり、現場から呼び戻すのは不適切、という判断で最終的には小磯国昭に組閣の大命が下った(1944年7月)。しかし実際には、穏健派で海軍の米内光政との事実上の連立を採る形になった。
小磯は1880年、栃木県宇都宮の旧士族の家に生まれた。そののち陸軍士官学校から陸軍大学に進み、参謀本部での勤務を経た「典型的陸軍エリート」であり、現役と予備役を繰り返すも、太平洋戦争開戦直後の1942年5月、第八代朝鮮総督となる。
小磯総督は日中戦争以降国策になった「内鮮一体」を強力に推し進め、現地朝鮮人の登用などを推し進めたが、これらは戦争勃発による人的資源を節約するためであり、日本側の都合に過ぎなかった。戦局が悪化する1944年5月には、それまで「志願こそは忠誠の象徴」として志願制だった朝鮮での兵役を徴兵制として、朝鮮の青年人口を全て戦争遂行につぎ込む強権的な同化政策を押し付けた。小磯は「朝鮮のトラ」と呼ばれた。
日本の保守派の一部やネット右翼、それに歴史修正主義者は、「内鮮一体」のスローガンを以て日本と朝鮮に差別はなかった、という物言いをするが実際に朝鮮半島には日本内地との厳然たる格差や差別があったからこそ、敢えて「内鮮一体」という美名を用いなければならなかったのである(―本当に二者が平等なら、このようなスローガンは不要のはずである)。
・伊勢神宮へ向けて一分間の黙祷を全国民に強制
さて東条英機の失脚により急遽、朝鮮総督から内閣総理大臣になった小磯国昭は、それまで存在した「大本営政府連絡会議」を「最高戦争指導会議」に改編して陸海軍部と政府の一体的集約を狙ったが、小磯の指導力不足でうまくいかなかった。
小磯は典型的な非科学的精神論者で、総理就任後「一億総武装」を掲げ、「伊勢神宮必勝祈願」を国民に呼びかけた。これは、1944年12月11日の午後1時22分に、その場にて1分間の黙祷を伊勢神宮に行うことで精神的勝利を得るというもので、要するにカミカゼ思想であるが、全く意味不明であった。読売新聞によると、この小磯が打ち出した「伊勢神宮必勝祈願」に対して、
という。小磯の異様ともいえる精神主義は、昭和天皇からも疑問視されている。戦後刊行された『昭和天皇独白録』(文藝春秋)にはこうある。
”神がゝりの傾向”とはかなり辛辣な表現だが、小磯は昭和天皇が危惧した経済について無知なばかりか、近代戦に対しても全く無理解であった。小磯は典型的な「一撃講和論者」であった。「一撃講和論」とは、フィリピン方面に上陸する米軍に一矢報いて、その余勢をかって有利な条件で連合国と和平を結ぶという考えで、小磯はこの考えに従ってフィリピン、レイテ方面での日米会戦を「大東亜戦争の天王山」と表現した。
しかし現実は、レイテに上陸した米軍は、日本のフィリピン統治の悪さから抗日ゲリラに転じた民衆と連携して、圧倒的な火力で日本軍を粉砕してフィリピンの首都マニラが陥落した(1945年3月)。また米機動艦隊と輸送船団を撃滅する予定だった連合艦隊も、レイテ沖の戦いで壊滅し、日本海軍は事実上消滅した。このような中、1945年3月10日の東京大空襲がやってくる。
・10万人が死んでも精神論を叫び続ける
米軍はサイパン島を占領(1944年7月)するまで、空母艦載機によるドゥーリットル空襲を除き、B-29を中国奥地の成都から発進させ、北九州の工業地帯や長崎県大村の海軍基地を爆撃した。さらにサイパン占領後は、サイパン・テニアン方面から直接日本本土を空襲したが、主に多摩地方、川崎、名古屋等の造船所や航空生産工場など、主に軍事目標に対しての高高度精密爆撃だった。
だが日本上空特有の激しい気流と、1944年末時点ではまだ辛うじて残存していた日本側迎撃機の邀撃により、思うように戦果が上がらず、1945年3月を以て本格的な大都市に対する無差別絨毯爆撃に切り替えた。
1945年3月10日、サイパンから発進した約300機のB-29は、同深夜(つまり日付変わってすぐ)東京上空に到達した。この作戦を指揮した米軍のカーチス・ルメイは、B-29各機に遮二無二目標上空に到達して焼夷弾を投下せよ、と命じた。通常、大都市を空襲する場合は、敵の地上からの高射砲攻撃や迎撃機を警戒して編隊を組むが、ルメイはあえてそれをせず、目標到達を優先した。ルメイは日本側高射砲の能力は微弱で、日本にはもはや強力な迎撃隊は居ない、と判断していたからである。戦術的には実にルメイの判断は正しかった。ドイツ軍と違って日本軍は戦略爆撃に対し全くの非力だった。
しかし日本側も、ただ手をこまねいて無防備でいたわけでは無かった。サイパン方面から北上し、日本本土を空襲する米軍機に対して、房総半島の南部等にレーダーによる早期警戒網を構築していたのである。しかし日本軍はレーダー兵器への投資を怠っており、そもそも性能が悪く、またこの時運悪く、その劣悪なレーダーですら強風により故障して役に立たなかった。こうして東京の下町は米軍に焼かれた。死者10万人以上という未曽有の大被害になった。
小磯国昭首相は、3月10日の東京大空襲から約2週間後の3月21日に、「国難打開の途」として国民にこう呼びかけた。
東京大空襲によって10万人の死者が出た直後、小磯首相が国民に訓示したのは、このような徹頭徹尾の精神論に彩られていたが、米軍の都市空襲に対してなんら科学的、軍事的な対応を語ることは無かった。だがそれは言ってみれば小磯の責任というよりも、用意周到に計画された米軍の無差別爆撃に対し、この時点で日本軍の効果的抵抗のすべは無かったともいえる。
・東京大空襲で政府を信じなくなった国民
3月10日の東京大空襲で10万人以上の死者が出たのは、攻撃目標となった下町一帯が人口稠密で、狭小な木造家屋が密集していたという原因もあるが、背景には当時制定されていた「防空法」の存在があった。防空法では敵空襲の際、市民に初期消火を義務づけており、その場を許可なく離れ、消火に参加しなかった者には高額の罰金があった。
東京大空襲は日本国民にとって、大都市における初めての超大型の無差別爆撃であった。よって下町の人々は、政府発表を信じ、火の手が上がった瞬間でも逃げることなくその場に踏みとどまり、消火活動を行おうとした。しかし高性能の焼夷弾での延焼を素人の市民がバケツで消し止めるのは無理な話で、逃げ遅れた多くの市民が殺傷されたのである。
作家の早乙女勝元氏によれば、東京大空襲は日本国民をして、政府のプロパガンダへの決定的不信を与えたという。それまで米軍の焼夷弾など恐るるに足らず、バケツで消火できる―と信じ込まされていた国民は、下町の悲惨な状況を見聞きし、「防空法」が如何に虚構であるかを感じ取った。よって「空襲で火の手が上がったら、家財など持たずに一目散に逃げること」が市民の間で暗黙の鉄則になった。
実際、米軍は1945年5月以降、東京に対して山の手空襲など数次の大規模空襲を行い、その際の爆弾投下量は3月10日の下町空襲より多いものであったが、死者は数10分の1以下であった。これは「防空法」に不信を抱いた市民が、法律を破って一目散に避難したことも大きいとされる。戦時中、日本国民は政府や軍のプロパガンダに騙されていたという意見が多いが、眼前で政府宣伝の嘘・虚構を知った市民は、自身と家族の生存の為にあえて法律を破り、逞しく戦火の中を生き延びる決断を下したのである。
3月10日の東京大空襲から1か月と経たない1945年4月1日、米軍が沖縄本島読谷付近に上陸し、凄絶な沖縄戦が開始された。小磯国昭は、中国(中国国民党=重慶政府)との和平交渉が失敗したことと、米軍の沖縄上陸を阻止できなかった等の責任を取って、1945年4月7日に総辞職した。後任の鈴木貫太郎によって、日本は本格的な終戦工作を模索することになる。
巨視的に言えば小磯国昭は、1944年7月から翌45年4月までの約10か月間、宰相として政府のかじ取りを任されたが、あらゆる面で無能であり、異様ともいえる精神論に固執し、戦争終盤にあって貴重な10か月という時間をただ空費したに過ぎなかった。
小磯により、いたずらに負けが確定した戦争を精神論で継続したために、沖縄戦で20万の軍民が死に、東京、川崎、横浜、名古屋、大阪、神戸等はおろか地方都市も焦土と化し、最終的には二発の原爆投下とソ連参戦というさらに悲惨な戦局が展開された。
戦後、小磯は東京裁判で終身刑を言い渡され、所謂「巣鴨プリズン」で服役中に食道がんで死去した。享年70歳。経歴だけをみればエリートであったが、実際には無能な人が総理大臣になることは、小磯自身にとっても、また日本国民全体にとっても、最大の不幸であった。(了)