【九州三国志】豊久、戦乱の時代を駆け抜ける!若き武将の奮戦とその歩んだ道
天正4年(1576年)、島津家久の子として生まれた豊久(幼名・豊寿丸)は、戦乱の時代に翻弄されながらもその勇猛さを発揮し、数々の戦場を駆け抜けた武将です。
彼の初陣は天正12年(1584年)の沖田畷の戦い。
当時わずか13歳の豊久は、父・家久から「あっぱれな武者ぶりを見せよ」と激励され、首級を一つ討ち取る戦果を挙げました。
この戦いは、若き豊久にとって武将としての第一歩となり、父子での勝利を手にして帰還した際、家久が豊久の帯を解いたという逸話は、彼の成長を象徴するエピソードです。
天正15年(1587年)の根白坂の戦いでは、伯父・義弘と共に敵地へ攻め込むも敗北を喫し撤退。
その後、天正16年(1588年)に父・家久の死を受け、日向国佐土原城の城主として家督を継ぎました。
父の急死については毒殺説も囁かれているものの、これを受けた豊臣秀吉の特別な配慮により、彼は島津一族の中で重要な立場を確立します。
父を失った豊久を伯父の義弘が養育し、義弘から戦場での生き方や戦略を学んだことが、彼の武将としての資質をさらに高めたとされるのです。
文禄・慶長の役では、豊久の武勇が際立ちます。
朝鮮出兵中の文禄元年(1592年)、彼はわずか500人で城を守り、6万の敵兵を撃退。
さらに漆川梁海戦では敵船を奪取するなど、数々の武勲を立てたのです。
また、晋州城攻略においては「一番乗り」の武勇を示し、豊臣政権から感状を与えられています。
この間、豊久が奮戦する一方で、彼の性格の粗暴さや横暴な振る舞いにより部隊からの脱走者も出たと記録されており、その人間性には未熟さも見られました。
庄内の乱にも豊久は参戦し、島津忠恒に仕え、山田城の攻撃を指揮してこれを陥落させる功績を挙げました。
この乱の後、島津義久から功績を評価され野々美谷の所領を与えられるが、豊久はこれを辞退します。
彼の辞退の理由は明記されていないものの、これは家中への配慮や、謙虚さの現れであったとも推測されているのです。
戦場での活躍だけでなく、豊久の生き様は島津家の精神的支柱ともなりました。
伯父・義弘への恩義や戦場での学びを大切にし、家臣や部下からも敬愛される存在であったのです。
その一方で、戦乱の時代に生きる若者としての未熟さも垣間見られる豊久は、島津一族の中でその存在感を大いに示しつつ、歴史に名を刻んだのです。
彼の人生は、若さゆえの激しさと成長の軌跡に彩られています。