初の五輪でメダル狙う志田/松山、連係進化の裏側
2人しか成し得ない連係で、メダルを取る。パリ五輪に初出場するバドミントン女子ダブルスの志田千陽/松山奈未(再春館製薬所)は、今までにはいなかったプレースタイルのペアだ。
パワーで劣ることの多い日本の女子は、守備中心の選手が多い。2018年、19年に世界選手権を連覇した松本麻佑/永原和可那(北都銀行)が、ともに170センチ超えの長身ペアで打ち下ろすパワーショットを武器に活躍しているが、志田/松山は、速さを武器とする攻撃スタイルだ。ダブルスは、基本的に前衛、後衛の縦並びが攻撃の形。しかし、2人は、志田が後衛、松山が前衛に入る縦並びでなく、本来は守備陣形の横並びでも、低くて速い球の打ち合いで相手を押し返し、素早いローテーションで攻撃に転じる。
3月、パリ五輪の会場で行われたフランスオープンでは準優勝。直後の全英オープンでも準優勝。世界トップレベルの戦いで頂点を狙える力を示した。メダルは、射程圏内だ。
松山が後衛のプレー改善、リオ五輪金の松友から受けた刺激
志田と松山の「シダマツ」ペアが台頭したのは、2021年の東京五輪が終わってからだ。A代表に入った20年は、コロナ禍で大会が少なかった。21年後期、ようやく国際大会が主戦場となり、世界基準に慣れていった。
変化の予兆が見られたのは、この頃だった。同年10月の女子国別対抗戦ユーバー杯は、志田が負傷欠場。松山は、2016年リオデジャネイロ五輪金メダルの松友美佐紀(BIPROGY)とペアを組んだ試合で刺激を受けた。遠征後には「自分が後衛から高い球を打つときは、スマッシュで攻める方が安心。でも、松友さんは、攻守交代をさせない攻めのクリア(敵陣後方へ球を送るショット)。打ち下ろす強打と頭を越すクリアの打ち分けに、相手が迷っていた」と話し、同じ前衛タイプの松友が見せたプレーを参考に、自身も後衛でのプレーの幅を広げていった。同時に、1学年上でペアのリーダー的存在である志田がいない中、自分なりの発想でプレーする感覚も覚えていった。
新エースへの成長、壁となった重圧との戦い
パリ五輪に日本のエースとして臨みたいとイメージを描いていた2人は、世界の戦いで荒波にもまれた。22年の夏、国内で開催された世界選手権、ジャパンオープンは、連続で早期敗退。重圧に潰された。普段は、志田が明るい笑顔でパートナーに安心感を与える。しかし、うまく試合を運べない中、松山は志田を見ていたが、志田はコーチ席を見ていた。どちらも、どうすれば大丈夫なのか、答えを欲しがっていた。
志田は、21年東京五輪を見る際、各ペアの年上の選手の振る舞いに注目していたと話したほど、ペアを引っ張る意識を強く持っていた。しかし、高いレベルに挑戦していく中では、個人でも課題に向き合わなければならない。重圧の中で、自身のプレー、ペアとしての戦術、パートナーへの気遣いと多くの事をやろうとして気が回り切らず、パニックに陥った印象だった。
重圧との戦いは、五輪レースで再び巡って来た。23年5月、1年をかけて行うパリ五輪の出場権獲得レースが開幕する時点では、日本勢トップの世界ランク2位。しかし、レースでは、プレッシャーがかかる日本勢対決で苦戦。東京五輪からの2大会連続五輪出場を狙う松本/永原、福島由紀/廣田彩花(岐阜Bluvic)に序盤で抜かれて3番手に落ちた。再浮上への明らかな変化が見えたのは、約1年前、23年夏の世界選手権からだった。
「理解」と「感覚」のズレ、1年前の緊急ミーティング
23年の世界選手権直前、志田/松山は、豪州オープンで中西貴映/岩永鈴(BIPROGY)に2回戦で敗戦。帰国後にチームスタッフを交えて緊急ミーティングが行われた。意図が合わない場面について、頭で理解したい志田と、試合の中での感覚で把握する松山。個性によるズレをどう受け止めるか。それぞれが思うところを話し合った結果、明確な約束事が決まったわけではなかったが、松山には自分が感覚的に把握するだけでなく、伝える役割を持つ自覚が生まれた。一方、志田には、すべてを把握しようと思い過ぎず、松山に合わせていく感覚が生まれた。
垣岩コーチは、話し合いの後の2人の変化を次のように話した。
「あの話し合いは、良かった。そこから、2人は強さを増した。特に、松山は練習の集中力が増してミスが減ったし、発信が増えて来た。最近は、練習メニューを伝えた瞬間から、2人でどう動くかを話すことが多くなった。志田は、ペアを良くしたい思いが強く、そこまで気にしなくてもいいよというところまで気にして疲れてしまうタイプ。だけど、(松山との連係を)気にかけ過ぎて集中力を欠くと機能しない。練習でも、志田は不安があると時間を取って練習するけど、松山は感覚さえつかめればできてしまう。そういう違いがある」
割り切った志田、任された松山
直後の世界選手権は、準々決勝で世界ランク1位の中国ペアに敗れたが、進化の手応えを得た大会だった。同年秋のアジア大会では、団体戦で中国ペアを撃破。松山を軸とするラリーが増えていた。24年4月、五輪レース最終戦のアジア選手権で、志田は「うまくいかないとき、自分が何とかしなければというのがなくなって、奈未、お願いって(笑)。自分のやることが明確になった。今は、良い意味で諦めてできている」と語った。同僚の山口茜に相談し、まず自分のやるべきことを重視し、プレーに集中できるようになったという。
信頼する志田に任される場面が増え、生き生きと輝きだしたのが、松山だ。スピードと天性の勘で相手の速い球に対応。攻撃のギアを上げるプレーが目立つようになった。相手の狙いを把握して志田に伝え、戦い方の変更を促す場面も出て来た。松山は「流れが悪いときに、冷静に相手を見れるようになったとは思う。負けていても(得意のスタイルを出せなくても)どうにかなると分かって来た。それが、そんなふうに(生き生きと)見えているのかもしれない」と話したが、主体的に動くことで明らかに存在感を増した。
その分、感覚派の松山に合わせるプレーが増える志田は「良い意味で諦めた」と言ったが、むしろ、より難度の高い連係の生み出し方を受け入れたとも言える。結果、ペアを引っ張ろうと強く意識していた時期よりも、2人で大きな力を発揮できるようになった印象がある。
松山に任せる度量を持って自分のプレーを向上させた志田と、志田に頼っていた役割を部分的に担って成長した松山。2人は、元々、高校時代にジュニアナショナルで組んだ仲良しペアだが、1学年上の志田が引っ張り、松山が付いていく形から、対等に尊重し合う大人になった2人らしい組み方に変わって来たと言えるのかもしれない。
そうは言っても、コート上でのバランスが少し変わっただけではある。6月、インタビューをした際に「最近は、先輩と後輩ではなく、自然と分かり合う姉妹みたいな印象ですね」と言うと、志田が「どっ、どっちが姉でしょうか? 私? ああ、良かった」と一瞬焦った表情を見せ、松山は笑っていた。ずっと組んで来た2人の信頼に裏打ちされた、バランスの変化。最大出力を発揮できるようになった「シダマツ」が、集大成となる五輪に挑む。