【河内長野市】連絡バスがないのになぜ千早口駅?謎を追及すると登山道説と今は無き架空索道のキーワードが
河内長野市内にある南海電車の駅のうち、北側から見て美加の台駅まではベッドタウンに住む人たちを中心に、通勤通学で多くの人が利用しますが、その後の2駅は比較的のんびりとしたローカルな駅のイメージがあります。
美加の台駅からトンネルをくぐった先にある千早口駅ですが、以前から非常に疑問に思っていたことがありました。それはズバリ駅名です。
千早口という名前であれば、千早(現:千早赤坂村)への入り口と考えるのが普通ですね。
例えば兵庫県の篠山口駅は丹波篠山という町の入り口にある駅ですし、広島県の宮島口駅は、宮島の入り口という意味があってそういう名前になっており、町や島まで連絡バスや船があります。
しかし、千早口駅で降りても千早に向かうバスなどは運行していません。千早に行こうとするならば、河内長野駅から金剛山ロープウェイ行バスに乗る必要があります。
この地図で赤い線を引いているのがバスのルートです。千早口駅とは明らかに違うルートを通っていますね。もちろん千早口駅から千早に向かって車で行ける道があります。それは青い線で引っ張っているところ。
その道は、南河内グリーンロードという名前です。この道が千早口の近くを通り、鳩原のあたりで道が分かれ、それぞれバス道である国道310号線と続いています。
千早口駅は、旧天見村岩瀬にあります。天見は次の駅なので名乗れない(天見口駅ならあり得る)としても、それなら岩瀬駅、もしくは隣接する清水地区から名前を取って清水駅でもよさそう。村単位にこだわるなら旧加賀田村が比較的近いので加賀田口駅もありえそうです。
なのに、なぜ千早口駅と名乗っているのか疑問が湧きますね。ちなみに旧千早村(現千早赤阪村)の位置ですが、間に旧川上村を挟んださらに遠くにあるので、よけいに不思議です。これはいったいどういうことなのでしょう。
千早口駅が命名された経緯について調べると、ふたつの根拠が出てきました。ひとつめは昔の街道由来によるものです。
千早口駅の近くに並行して高野街道が通じており、そこには御所の辻(ごしょのつじ)と呼ばれる場所があります。そこから千早・金剛山方向に道があったとかで、それは事実上の金剛山への登山道です。
つまり、御所の辻→塞の神→十字峠→石見川→千早峠→金剛山というルートとなります。塞の神からは、もうひとつのルートとして、クヌギ峠と太井を経由して千早方面に向かうルートもあるのだとか。大まかには上の図の緑の線のようなイメージで道が続いていたと思われます。
ルートの起点である御所の辻は、千早口駅のすぐ近く、高野街道沿いにあります。南北朝時代に後村上天皇が、奈良県五條市にある賀名生(あのう)から天野山金剛寺に移動する途中で夜を明かしたことから、この名前が付いたのだとか。
現在も「右かうや 左かんこうせんみち」と書かれた石碑が残っています。
ということで、御所の辻が高野街道から千早・金剛山に向かう登山道ということから千早口という名前が付いたという説をご紹介しましたが、個人的にはどうもこれだけで駅名を付けたことに少し疑問、というより根拠となるインパクトが弱い気がしました。
「何か他にないか?」と探していると、もうひとつの説が出てきました。それは「千早口から千早まで、貨物専用の架空索道(かくうさくどう)があった」という情報です。
架空索道とは、空中ロープウェイのことです。と言っても画像のような人を乗せるゴンドラが千早口から千早まであったのではなく、貨物専用のロープウェイ。
貨物専用架空索道は、明治時代から大正時代にかけて山岳地帯に数多く登場しました。このころはまだ山の中に舗装された道路が開通していなかったので、人が歩いて物資を運んでいた時代。それに代わって考え出されたのが、空中で物資を運ぶ架空索道です。
大和索道(やまとさくどう)株式会社は、1912(明治45)年に、日本最初の架空索道による貨物運送事業の会社です。そのルートは、地図上に赤い線で示した通り。
五條市の貨物の集積地だった紀ノ川沿いのある二見川端から、紀伊半島の山の中、当時の大塔村(おうとうむら)阪本を結びました。
後に緑色の線、野迫川村(のせがわむら)の柴園(しおん)まで延長したとか。
ただ通常の鉄道ではない新しい試みだったので、申請のために提出されたものの奈良県も知識がなく、敷設の許可を出すのに相当時間がかかりました。
こちらは、当時の写真をもとに再現して絵にしたものです。人を乗せるロープウェイと比べて、きわめて簡単なものであることがわかりますね。
架空索道の長さは19.76 km。5区間6つの停場、ひとつのゴンドラが140kg積むことができ、1.8 m/s(時速6.48キロメートル)の速度で運行していました。
架空索道が完成したことで、それまで何日もかかっていた山間部への輸送が、たった2時間40分ほどで結ばれました。このように、圧倒的な速さで荷物が運べるようになったということで、以後、各地に架空索道ができるようになったそうです。
こうしてできた架空索道の例として、高野索道も取り上げましょう。
高野索道は、九度山町椎出(しいで:現、高野山下駅近く)と高野山大門を結び、高野山に物資を運んでいたロープウェイ。
椎出~高野山間の約6kmを結んでおり、明治45年から昭和35年の50年の間、業務が行われていました。これで高野豆腐を輸送したという情報もあります。
こうして、全国で次々と架空索道が建設されました。大正時代には次のように、本当にいろんなところで作られたようです。
- 1917(大正6)年 洞川(どうかわ)索道
- 1918(大正7)年 北山索道
- 1920(大正9)年 紀和索道、奈良倉庫運輸、紀南索道(和歌山)
- 1921(大正10)年 久万索道(愛媛)、千早(ちはや)索道
- 1923(大正12)年 益田索道(島根)、三芳索道
この架空索道のリストの中に、大正10年に千早索道が作られたという記録を発見しました!
しかしながら、千早索道について調べても金剛山ロープウェイばかり出てきて、ほとんど記録が残っていません。
その中でも、わずかに見つけた情報によると、おおよそ次のようなルートを運んでいた模様です。
千早索道ができる大正10年よりも6年早く高野登山鉄道の駅として千早口駅が開業していますが、もしかしたらこの時点で既に千早索道の計画があったから、駅名を千早口としたとは考えられないでしょうか?
ということで千早口駅ネーミングの謎について紹介しました。最初に駅を作った高野登山鉄道が現存しないこともあり、結局、公式な理由がわかりませんでした。
あくまで推測の域をでませんが、高野街道の時代の登山道の説と、大正時代の架空索道説のいずれかである可能性は否定できません。
千早口駅
住所:大阪府河内長野市岩瀬
アクセス:南海千早口駅直結