五輪ゴルフは「大成功だった」
長丁場だった五輪ゴルフが、ようやく終わった。
男子の金メダリストは米国代表のザンダー・シャウフェレ、女子の金メダリストは、やはり米国代表のネリー・コルダ。霞ヶ関カンツリー俱楽部の18番グリーン脇で一番高い位置まで掲げられたフラッグが、男女どちらも星条旗だったことは、ジュニアゴルフからプロゴルフに至るまで、米ゴルフ界がいかに充実した育成システムと育成環境を誇っているかを如実に物語る結果だった。
そして、2人の金メダリストを突き動かしてきた原動力は「愛」だった。
シャウフェレの父親はドイツとフランスのハーフで、かつては陸上十種競技の米国代表選手として五輪出場を夢見ていたが、交通事故で左目を損傷し、断念した。シャウフェレの母親は台湾生まれで日本育ちだ。
母が育った第2の故郷で、父が果たせなかった夢を叶えた「シャウフェレの物語」には、母国愛と家族愛が溢れており、そんな家族の絆と温かい愛が、ゴルフにおいて、スポーツにおいて、大きなモチベーションになり、何よりのヘルプになることを示してくれた意義は大きい。
女子の金メダリスト、「コルダの物語」にも家族愛が溢れ返る。姉のジェシカとともに姉妹揃って東京五輪に出場したことは、大きな話題になったが、コルダ姉妹は、自分たち自身の想いだけではなく、元テニスプレーヤーだった両親やプロテニスプレーヤーとして今年のウインブルドンに出場した弟の想いも引き受け、家族みんなで五輪メダルを夢見てきた。
米国の2つの金メダルの背景には、そんなふうに家族で引き継がれた「想いのリレー」があった。
【伝播の力】
五輪女子ゴルフの最終日の午後、雷雨によりプレーが一時中断されたとき、米国から取材に訪れていた某通信社のベテラン記者と話をしていたら、彼はとても興味深いことを言った。
「僕たちゴルフ専門メディアにとっては、ゴルフが4日間72ホールで競われるのは当たり前だけど、世界のどこかからやってきたメディアにとっては、ゴルフ取材は驚きの発見だったりもする。ゴルフというスポーツが、じっくり4日間をかけて競われることを世界に知ってもらえただけでも、五輪ゴルフを開催した意義はある」
最後までメダル争いに絡んだインド代表のアディティ・アショカは、23歳にして、すでに今回が2度目の五輪。彼女が初めて挑んだ五輪は2016年のリオ大会だった。
「あのとき私が五輪に出た姿をテレビで見て、インドではたくさんの人々がゴルフクラブを握るようになり、ゴルフ場もたくさん作られて、ゴルフが盛んになりました」
そうやってゴルフを知らない人々にゴルフが知られ、広められていくことは、五輪がもたらす「伝播の力」だ。
【五輪ゴルフは大成功】
東京五輪のゴルフが日本にもたらしたものも大きかった。
星野陸也の初日の第1打から五輪ゴルフが始まり、彼はその重圧をひしひしと感じて最初から最後まで緊張しっぱなしだったが、逆に言えば、星野が見せたそれほどの緊張ぶりは、選手にとっての五輪ゴルフが重くて厳かな存在であることが人々に伝わったのではないだろうか。
松山英樹は金メダル獲得の可能性に迫りながらもメダルを逃す結果になったが、コロナ感染から短期間で復帰してメダル争いに絡んだ彼の奮闘は、コロナ禍に苦しんだ人々や今も苦しんでいる人々への力強いエールになったと私は思う。
畑岡奈紗はメダル獲得を切望しながら結果的には逃した。だが、ゴルフの調子を万全な状態に持っていけず、最終日にはキャディが腰痛を発症して交替するアクシデントにも見舞われながら、それでもトップ10(9位タイ)に食い込んだ彼女の粘りと頑張りは、大勢の人々に勇気と元気をもたらした。
そして、稲見萌寧は国際経験が数えるほどしかない中、「楽しみながら回りたい」と笑顔を讃えながら戦い抜き、堂々、銀メダルを獲得。霞ヶ関CCの18番グリーン脇に日の丸が掲げられ、「子どもたちがゴルフを始めてくれたらうれしい」と語った稲見の姿は、必ずや日本のゴルフを拡大させるはずだ。
2016年のリオ大会で112年ぶりに五輪競技に復活したゴルフが、次なる東京五輪でその存在意義をメダリストや出場選手たちとともにしっかりと示した今、「五輪ゴルフは大成功だった」と、言っていいのではないだろうか。