【九州三国志】八幡丸、若き日の奮戦!戸次鑑連、その初陣と家督相続の物語
永正10年(1513年)、豊後国大野郡の鎧岳城主・戸次親家の次男として生まれた八幡丸(後の戸次鑑連)は、早くに母を失い、病床の父に代わり継母の手で育てられました。
14歳で初陣を迎えた八幡丸は、大内領の馬ヶ岳城を攻め、わずか2,000の兵で3,000の敵軍を破るという快挙を成し遂げます。
この初陣の勝利で凱旋した後、大永6年(1526年)に父が死去し、家督を継承。
元服して親守と名乗り、その後「親廉」、さらに大友義鑑から偏諱を受けて「鑑連」と改名しました。
家督相続後、鑑連は大友義鑑に仕え、数々の戦功を挙げます。
天文4年(1535年)の肥後国での車返の戦いでは、菊池氏を含む国人衆の反乱を鎮圧。
天文15年(1546年)には秋月文種の謀反を鎮め、義鑑の信頼をさらに高めました。
しかし、天文19年(1550年)の「二階崩れの変」では、大友家内での後継争いが勃発。
鑑連は義鑑の嫡男・義鎮(後の大友宗麟)を支持し、家督相続を全力で支援。
反対派の入田親誠や菊池義武を追討し、その武威を広く示しました。
隠居後もなお、鑑連は戦場に立ち続けました。
天文22年(1553年)に家督を養子の鎮連に譲り隠居したものの、弘治2年(1556年)の姓氏対立事件では再び指揮を執り、反乱を討伐。
鑑連の生涯は、一族を守り抜くために戦い続けた激動の物語として、後世に語り継がれることとなりました。